えこひいき日記

2004年11月15日のえこひいき日記

2004.11.15

昔やったことがあって最近はやっていないこと・・・例えば逆上がりとか、でんぐり返りとか、100メートルを何秒で走ることができるとか・・・を「今も昔のようにできるはず」と思い込む感覚が人にはあるようだが、私にはなんでそんなことを思い込めるのか信じられない!と思うことがある。何を根拠に「今も出来る」と信じることが出来るのか、すごく不思議な気がする。仕事柄かなあ。上記のような「昔できたこと」というのはたいていこども時代あるいは思春期くらいの体験であることが多いのだが、そんなん、身長も体重もその頃とは違うし、その頃に定着した運動の「勘」のようなものを今の身体に当てはめるのは無茶なのである。こどもの頃から同じ運動をしている場合(例えば体操選手やダンサー、あるいは楽器演奏者)などは、その身体変化に応じてやり方をリニューアルし続けているからできるわけであって、たとえ外見上同じ技をやり続けているように見えたとしても、同じやり方でやり続けているわけでは必ずしもない。というより、たいてい違う。
過去に得た印象やインパクトに基づく記憶が現在の状況認識よりも自分にとってリアルに感じられてしまう・・・というのは、これまた仕事柄いっぱい目撃していることではあるが、ほんとに「怪我」しますから、皆さんお気をつけあそばせね。
「昔取った杵柄」という言葉もあるように、全くやったことをないことを行うよりも過去に経験したことを再度行うほうが学習ないし行為の成功がスムーズだということは確かにあるが、それすら本当は練習やリハーサルが必要なことである。たまたまやってみたことが成功して、「さすが昔取ったキネズカですねえ」などといわれる場合は単に「ラッキー」と言われているのに等しい。それは社交辞令であり、およそ全ての出来事に何か理由(原因)を与えて自分を納得させたい傍観者が常備しているトランキライザーみたいな言葉に過ぎない。当事者がこの言葉を発することもあるが、基本的に「やったー!ラッキー」という感情や自分の成功を傍観者に対して尊大にならないように発する「謙遜」のような意味合いではなかろうかなどと思ってしまう。
ともあれ、なんで「昔やったことが今も出来る」とこんなに無防備に信じ込めるのか、不思議であると同時に興味もあるところだ。
でもこの「信じ込める」という感覚が、無意識のまま習慣を成立させるのに貢献していることは理解している。だから癖を改善するのって、難しい。「信じ込める」・・・これこそが過去の経験に基づいた体感を“冷凍保存”して“今現在”のことのように錯覚してしまえる「記憶」というものの妙といえるかもしれない。「記憶に基づく体感(今感じていることではなくて)」がいかに人にトリックを仕掛けるかは仕事柄よく知っていることであり、「昔できたことを今も出来ると信じ込めることが、信じられない」というのもこの仕事ゆえに得た私自身の「体感」である。人間の体感がいかに細やかに変化していくものか、その細やかさが研ぎ澄まされていくことによって、繊細なコントロール(微調整)が可能になり、奇跡のような高度な運動も「まぐれ」ではなく行えるようになることを、日々目にしているせいであろう。

「勘」とか「感覚」と呼ばれる身体的な判断基準は、実は常にリニューアルされていくことで継続される。「加減」と呼ばれる感覚的な判断は、実は日々変化できていてこそ信用性が増す。文字通りに、「今」の状況を感じて「加」したり「減」したりする「行動力(感じたことを行動に翻訳することを許可できる実行力、精神的には“勇気”といってもよいかもしれない)」がなければ行動の安定性は生み出せない。しかし成功を焦るとフットワークが重くなることがある。必要な「加減」を行う行動力が鈍ってしまうことがある。前向きにやる気をもって取り組んでいたはずが、その「やる気」がかえって自分を追い込んでしまい、判断力や行動力を奪っていくことも、仕事の中でよく目にしていることではある。そうやって自分のための「練習(行為)」の意味が死んでいく。他人の目に見える「成功」だけを自分自身もまた「他人」のような目線で追っていたりする。いつの間にか自分の行為が「自分」のものではなくなり、これまでのイメージを維持するための、あるいは進むべき方向が分からないからそうしているだけの、ぐるぐる回りになってしまう。
一つのことをじっくり深めて、続けていく上では様々な「罠」に遭遇する。自分がやっていることは全く間違っていたのではないかと不安になり、正反対のやり方が正しいのではないかと思い込んでしまったり、思い余って「もうやめる」と口走ったり、他者のアドバイスが聞けなかったり、逆に聞きすぎたりすることもある。真剣でいながら軽やかであるのは簡単ではない。でも大切なことだ。変わる勇気と続ける勇気を併せ持つことは、何か一つの事柄をすることに留まらず、根本的に「自己」を継続するに当たって必須でありながら簡単ではない。だからこそ手を抜いてはならないと思うのである。

これを書きながら数人のクライアントの姿が目に浮かぶ。ある人には「変わる(変える)勇気をもって」と目を見て言いたい。また別のクライアントには「続ける勇気をもって。自信を持って」と言いたくなる。
そして自分のことも振り返る。来年で日本で仕事を初めて10年になるのだが、さて私はこの先どのように仕事をしていきたいのかな、と、自分自身を問うているところでもある。

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