えこひいき日記

2006年9月30日のえこひいき日記

2006.09.30

なんと、9月が終わってしまいます。

先日、湖東三山の秘仏のご開帳に行ってきた。湖東三山とされているのは、西明寺、金剛輪寺、百済(ひゃくさい)寺の三山で、いずれも天台宗の名刹である。それぞれ近江西国三十三観音霊場にも数えられ、四季折々の花や紅葉の美しさで知る人ぞ知る古刹であるが、今回は特別。なんでも天台宗開宗1200年に合わせた記念行事の一環で、それぞれのお寺がご本尊を公開するというのである。しかも、このご本尊である秘仏のご開帳の機会たるや、稀も稀。例えば西明寺がご本尊をご開帳になるのは「一住職に一度」らしく、今回は55年ぶり。金剛輪寺がご本尊は行基上人が一彫り彫るごとに三礼しながら彫ったというもので、ある時ノミを入れたら一筋血を流したことから「生身の観音様」として祭られている秘仏で、これもめったにご開帳にならない。百済寺のご本尊はこのお寺の開山1400年とも重なってのご開帳だが、これまた貴重。多分、これを逃したら生きて拝見する機会は無いかと思う秘仏ばかりなのである。

それにしても、日々私の生きている世界では「情報公開」と言っては知る権利と大切さを主張し、「個人情報保護」と言っては「わたしがだれであるのか」を「わたしからはあなたがだれかわからない」というところの「他人」が知ることを警戒して生きていたりする。その一方ではインターネットやブログなどを通して「わたしがだれであるのか」を・・・というよりも「わたしが(だれかわからなくても・たいしたことがあってもなくても)ここにいること」を「だれだかわからないけれど、そこにいるだろうあなた」に知ってもらうことに命がけになる人もいる。しかしながらどんなに近しい人に対してすら「知ってほしいこと」と「知られないこと」を持っていたりもする。手に手にカメラつき携帯電話を持ち、目に付いたものは自分のアタマやカラダが記憶する前に撮っちゃったりして「知った」気になったりもする。そういうことを考えてみると、私たちは「知る」ということに関してまさに掟なき乱世というべき時代に生きていると行っても過言ではないのかもしれない。知ることが自己防衛になり、また権力にもなる。お金にもなる。それが悪いこととは思わないけれど、いずれもベクトルが「外向き」すぎてしばしば疲れるような気がする。
そのような現実を考えつつ秘仏に対峙していると、「知る」ということの本質的な意味を考えざるを得ない気がしてくる。

今回拝見した秘仏は、いずれもどこにも写真などは公開されていない。それぞれの寺のパンフレットにも写真は無い。ただご本尊である秘仏の存在を紹介すべく、「お前立ち」と呼ばれる、普段は閉められたままの厨子の前におたちになっている身代わりの(?)仏様の写真が掲載されていることはあるが、ビジュアルで情報公開されているのはそれだけといえばそれだけなのである。勿論今回のご開帳にあたっても一般参拝客の写真撮影は認められていないし、住職や文化庁の職員でも簡単に許可されるものではないだろうと思う。文字通り、許されたほんのひと時に、その人がその秘仏に対峙して「みえた」ことが秘仏の全てなのである。
「みる」といっても、それを肉眼でとらえうるビジュアルの問題だと考えるならば、これまた「見える」ことの脆弱さ、限界につきあたらざるをえない。今回お参りさせていただいたお寺の一つで、ある年配の拝観者が双眼鏡で秘仏を覗き込もうとしてお寺の関係者にやんわりと止められているのに出くわしたのだが、それは宗教の立場でも仏様への礼儀であると同時に、それ以外にも大切な意味があるような気がしてならなかった。「仏」とはまみえるものであって、鑑賞するものではない。つい、「見る」となると自動的にそういう態度をとってしまいがちだけれどね。
厨子の中の薄暗がりに立つ秘仏の姿はいくら神経を集中させて見たとしても、その前から去ったとたんあわあわと薄れていくような気がしてしまう。どんなお顔立ちをなさっていたか、どんな飾りや色彩がそのお姿にあったのか、細部を記憶すべく目を凝らしたとしても、所詮目で「見える」ものには限界がある気がしてならない。でも、目で見た姿のディテールがいかにあわあわと消えそうになったとしても、消えない何かが残るような気がするのである。あるいは、目でとらえたものが自分の中で別のカタチに変換されて残ったもの、と言ってもよいかもしれない。秘仏は目ではない「目」でみなくてはならない。そうして「みえた」もの、その記憶が私の中に「秘仏」をつくる。そういう気がしてならないのである。
どこにも写真すら出ていない、住職でさえ一生に一度しか見え得ない秘仏を守っていくこととはいかなることなのかを考えると、そこには単に宗教的伝統的戒律を盲目的に守るというような、機械的な盲信では通じない何かなくてはたちゆかないのではないか、などと考えたりもする。そういう、「ほんとうのこと」・・・というより「一般的ではないけれど、うそではないこと」を見抜く「目」が人間の内部には備わっていると、私は思いたいのかもしれない。
私にとって今回秘仏に見えることは、人間の内なる「目」と、それで「みる」「知(智)」について考えさせられた小さな旅であった。

このショート・トリップではその他にもいろいろあったのだが、個人的に大事なエピソードであることと、大変言語化しにくい事柄でもあるので、ここには書かないよーん。

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