今月の「えこひいき日記」

  つれづれなるままノンジャンルに「気になったこと」を書き連ねてあります。

内容の無断転載・引用を禁じます

2001年7月26日に表示形式を変更しました。

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Web草思・連載2006.12-2007.05

 

2020年4月25日

10日ほど前にも「京都市内の様子ががらりと変化した」と書いた。

全国規模に緊急事態宣言が拡大されたことを受け、その様相は加速し、例えば数か月前は地元民が買い物をすることが困難だった錦市場も閑散とした風景。周囲のデパートも、食料品売り場を除いて休業している状態。

 

そういう光景を目にして、ちょっとやるせない気分になっているときに、突然

「まぼろし〜」

という叫び声が脳内に木霊したりする。

私の脳内の「ヴァーチャルIKKOさん」だ。

 

反射的にこういうものが登場するということは、私がそれなりにへこんでいる証拠でもあり、へこんだままでいたくないと思っている証でもある。

ありがとう、私の中の反射的なレスキュー・システム。

 

そのほかにも「脳内・小島よしお」などが、何かへこみそうになるたびに

「そんなの関係ねー」

をやってくれたりする。

 

 

さて、オンラインレッスンを始めて2週間ほど経ったが、まあまあいろんなことがあった。「いろんなこと」を時間経過とともに並べてみるとこんな感じ。

 

<戸惑いとトラブルから>

・機材トラブル

テレワーク用の機材をいろいろ購入したが、うまく作動しない!という「あるある」なことが起こる。

あれこれアダプタを購入するもなかうまくいかなかったり。

また、オンラインセッション中のマイクトラブルなど、あたふたする場面にも遭遇し、それなりに疲れ、かつ、めげる。

 

・対面レッスンとオンラインレッスンの違いを「欠落」寄りに感知

オンラインレッスンでは音声と画像がコミュニケーション手段になる。通常から「主なるコミュニケーション手段」(だと思って)使っている「音声」と「視覚」だが、いざオンラインでやってみると普段「みている」と感じていることが実は「視覚」センスだけを意味するものではなかったことにまざまざと気づく。

そしてつい、オンラインの画像で「みえる」ものから、普段感じているような情報を引き出そうとして、無茶苦茶疲れた。脳の疲労をあからさまに感じ、午後9時くらいには眠くなるくらい。

また、大学院の授業も全学的に前期はオンラインで行うことが決まり、予定していた授業プランを練り直さなくてはならなくなった。そのことを受け「実際に体験することが大事な科目で、その部分を強化するようにというリクエストもされていたのに、初対面の学生さんに初回からオンラインでどうせいっちゅーねん!」という気持ちが押し寄せ、アイデアが出てこなくなる。

 

<気づきと発見へ>

・「苦労・消費が報われたい願望」と「疲労」

例えば「機材トラブル」で紹介したようなトラブルは、私のワークスキルから考えれば「あるある」である。初心者であり、初めて取り組むことが多いのだから、最初からうまくいくことばかりではない。かつ、些細な作業にも緊張が付きまとい、どうしても体力気力共に消耗しやすくなる。

それは「過程の中で起こりうること」「むしろ避けられないだろうこと」と理解しつつも、うまくいかなさにばかり気持ちが集中したり、自分が消費したエネルギーの分だけ報われたい!(こんなに苦労しているんだから、報われてほしい、という気持ち)が強化され、かえって疲労を招いている。

つくづく「ココロ」というエネルギーは「気になることを気にする」性質が強い。良くも悪くも。

だから理性と身体構造を使って「ココロ」のエネルギーの使い道、集中力を調整しなくてはならない。

「仕方ない」「ドンマイ」「トライアルだよ、トライアル」「実現したいのだったら、しでかした失敗を悔いるよりも次を成功させることに集中するしか、どうせ道はない」の精神が重要かと思う。

 

・オンラインで、よりできること

目の前に相手がいて身体的なコンタクトも可能だからこそできることもあれば、それがあるケースにおいては「障害」になっていたこともあるのでは、と感じた。

例えば、オンラインのレッスンでは対面の時よりも「より相手の言葉を待って聞く」、別の言い方をするならば「相手が話している最中に、かぶって話さない」「相手が話しているときに、自分が何をしゃべるか、何をするかを考えすぎて上の空になる、が起こりにくい」という印象。「話す」「聞く」ことがいつもより丁寧に行われている気がした。

だから既存のレッスン経験者には、レッスン内で話していたことや、動きを「改めてとらえなおす良い機会になった」とおっしゃってくださる方もいた。

逆に言えば、言語化することがとても不得意な人には、こうしたレッスンは向かないのかもしれない。(今のところ、そういう印象のレッスンは怒ってはいないが)

 

・私は何をしてきたのか、「あたりまえ」とは何か

「“あたりまえ”は、常に更新されるもの」…これはオンラインレッスンの中でクライアントさんから出た言葉だ。新型コロナ以前の生活が“あたりまえ”であると思いがちだが、その生活は数十年前、いや数年前と比較しても違った生活だったはず。数十年前も、数年前も、その時行っていることを“あたりまえ”と思っていた。“あたりまえ”とはそういうふうに移り変わるもの…そこに戸惑いや違和感が生じないとは言わないが、しかし“あたりまえ”とは常に有機的に移り変わるものなのだ、ということはまさに真実である。

真実だけど、それに気づくこと、それを感じることは稀なのかもしれない。

私自身、私の既存の“あたりまえ”に執着している。それは「安心して自分が行えること」であると同時に「私という名の枠と限界」だ。

「自分が安心して“あたりまえ”に行ってきたこと」が“あたりまえ”に行えなくなった時、自分がやろうとすることが、壁を守ろうとする行動なのか、壁を(どうしようもなく)超えようとする行動なのかは、ひとによって分かれる。

そしてどちらかだか絵が合わられるわけでもない。でもどちらがより濃く現れるかによって、「ああ、自分ってこういう人なのか」と分かるような気がする。

さらにいうなら、そこで「わかった自分像」がファイナルアンサーというわけでもない。「これ、違うな」と思ったらいつでも変わっていい。異常事態とは、合理的に自分が変われるチャンスともいえるのだ。

 

 

レッスンの中でも「あの人が(あるいは自分が)こんな人だと思わなかった」という話がかなり出た。話し出した当初はそのことを「ストレス」として話していたのだが、よく考えると「前からそういう感じの人だと、気が付いていたではないか」という話も出てきたりする。

気が付いていたのに、どうして気が付かなかったのかといえば、まあ、既存の利害関係に響かなかったからであることが大きい。

それに、平安の中で、「気が付いてしまう」ことは時に恐ろしいことなのだ。

「気が付く」ことは既存の「均衡」を乱すこと。誰かが“気”を悪くするかもしれないこと。平和主義者はまず周囲の“空気”を慮り「気づき」を隠すことがある。

でも、既存の平安が少し乱れた時、自分の中に押し込めた「気づき」は芽を吹くチャンスを得る。今なら誰かを傷つけてしまうことを恐れずに、何かを変えられるかもしれない。

 

そしてどうなっていくのだろう。

まだまだ続くぞ。

 

 

 

2020年4月15日

所用があって、通勤経路ではない京都の街中(いわゆる繁華街)を歩いてみたのだが、確かに人が少ない。

というか、閉まっている商業施設やお店が多い。

繁華街の飲食店も、テイクアウトに応じてくれる店が多くなっていて驚いた。

何とかみんなこの時期を乗り切っていけますように。

 

テレビなんかも、新型コロナ関係のニュースでなければ、過去の素材を使った総集編的な番組も多くなってきた気がする。

その中で、とある対談番組の無公開シーン&総集編というのをやっていて、坂東玉三郎さんが出ていらした。その中で「長い休み」を取ったときの経験を話されていたのが印象的だった。

彼は40代の時に70日間の「長いお休み」を取ったのだという。

 

ご存知の方も多いと思うが、歌舞伎役者さんはほとんど年間スケジュールが決まっている。どの劇場でどの時期に公演をするかが風物詩のように決まっていて、しかもそれぞれが1か月くらいの長丁場。稽古やその合間を縫って入ってくる仕事を入れるとなると、あまりまとまった休みがない生活だ。それを70日間、スパッとやめた時期があったという。

やめてみると、それまで一つのことに集中していたからこそ見えていなかったものが見えてきた、と彼は言う。また「休むのって怖いでしょ。休むと後退すると思っている。確かに肉体はそうかもしれない。でも肉体はまた動かし始めれば戻る。でも、魂は休むことで後退はしない。」と。

私の記憶にある限りなので、ディテールが違っているかもしれないが、今のこの時期にこの言葉を聞けたことはとてもタイムリーなことに思えた。

 

 

「しなくてはならない」「してあたりまえ」を「しない」先に広がる風景を、「自由」と呼ぶか「異常」と呼ぶかはその人のその時の状態次第だろうし、同じ人の中でもどちらかだけではないように思う。

自分が、「どんな人でないといけないか」ではなく、「どんな人なのか」を知っているか否かによっても違うかもしれない。

 

意外と知らないんだよね、「自分」がどんな生き物なのか。

勤勉な人ほど「ならねばならない人」になろうとして、自分を御する技術はいろいろ持っているんだけれども、それが自分という生き物のスペック…才能や傾向や注意点や…を生かすものなのかは考えていなかったりする。

だから「自分がわからない自分」を認識した時に、「そういう自分を知る方法」として占いに行ったり、お参りをしたり、カウンセリングを受けたり、こーゆー場所に来たりするんだろうと思う。

(ゆえに「知ろう」とはしないで「支配しよう」とする人にはいずれの方法もあまり効果的に働かないといえる)

 

かく言う私も「わたし」のことがわかっているかというと、わからない。

自分のからだのことがわかるか、というと、やっぱりわからない。思い通りにできるわけではなくて、あくまで「活かして使っている」「共生」している感じだ。

 

 

わからない「わたし」をわかりたいと思っているので、私は「日課」を持っている。

「日課」の効果については『禍→福ワーク』等のワークショップで紹介しているが、「日課」とは、けして「毎日しなくてはいけないこと」という意味ではなく、「それをした方が調子がいい」「それをした方が自分の今日の体調や気分が把握できる」ルーティンのことで、結果的に続いている、続けた方が気持ちがいい、と感じられるもののこと。たとえ何かの都合で中断することがあっても自分にペナルティを課す必要はない。だってまた始めればいいだけだもん。

 

具体的に何をしているかは、「アーユルヴェーダの小部屋」の「朝はデトックス・タイム」に紹介しているようなことである。

これを今紹介する理由は、「免疫力キープ」に一役買うと思うから。

ポイントは「余分なものを省いておく」ことと「あたためる(ひやさない)」ことかな。

やり方は「小部屋」を参照していただくとして、ここではその理由を書いておきたい。

 

朝イチの歯磨き・舌磨き

口中細菌の除去。そのまま食事をとったとしても胃酸で無害化できるものではあるが、消化器系が弱っているときには負担になることも。また口の中がねばついていたりするところに別のウィルスや有害物質が付着すると少し話が違ってくる。「胃の調子がよくなった」「風邪をひきにくくなった」という方も多いので、おすすめ。

舌磨きは是非専用の器具を。歯磨きのついでに歯ブラシで磨いたるすると、かえって舌の表面を傷つけて細菌が侵入しやすくなったりもするのでご注意を。

・お白湯を飲む

コップ一杯のお白湯をふーふーしながら飲む。水分補給のみならず、ゆっくりと消化器を温め腸活になる。腸が元気でいることは免疫力アップの要!メンタルにも影響が大きい。

・朝食前の軽い運動

私は〆の短い瞑想を含め、30分程度行っている。文字通りのウォーミングアップになることはもちろん、例えば朝から気分的に「しんどいな」と思っていたのが本当にそうなのか、エンジンがかかっていなかっただけなのか、体調ではなく気がかりなことなどが原因なのか、判別することができる。また、頑張り屋さんだがばてやすい人が無意識に持っている「緊張と興奮で元気を捏造する」「自分のコンディションではなく責任感優先で動く」ことからやんわり自分を遠ざけて、「穏やかだけど元気」「エネルギッシュだけど荒ぶっているわけではない」というコンディションを作りやすくする。

 

私はこうした「日課」を持っているおかげで、現在の状況下でもあんまりダメージを受けず心身の健康が保ちやすい気がする。

また、夜遅い食事や、睡眠不足は便秘などの腸のコンディションを弱らせる原因になりやすい。いつもと違う生活パターンになると、一種のはしかのように「夜更かし」「寝だめ」などができることが「自由」のように感じられてやってしまいそうになるが、免疫の要となる腸と脳にとっては意外と負荷になるので注意されたし。そういうことが「したい」と感じているということは「あ、私やんわり普通に疲れているんだわ」と理解されたし。

 

 

また、在宅ワークを心地よく進めるポイントも上記の「日課」でわかろうとする「自分の性質の理解」に関わることが多いような気がする。

以下は『疲労と活力』などのワークショップで主に紹介していることだが

 

・「気分」と「不安」でやることを決めすぎない

「やるとなったらとことんやる(その方が気持ちがいいから)(下手をすると、休日の家での「仕事」の仕方がこのパターンばかりだったりする。漫画を読むのも、掃除をするのも)」とか「こんなことをしていていいのか、これでいいのか、という思いが常にある(根拠はないが、自分に自信がない、不安感が強い)」という気分の支配下のもとで「仕事」をすると、たいてい「やりすぎ」か「やらなさ過ぎ(本来の「したいこと」や「すべきこと」ではない方のことをやってしまう)」で疲労を招く。当然ながら達成感も満足感も薄く、本当に「仕事」が進まないことも多い。それをまた「気分」的に満足させたくて、リベンジとばかりに過激に頑張りだすか、「やる気が出るまでやらない(葛藤回避策なのだが、実は葛藤は抱えたまま)」で自己評価を下げ、辛くなってしまう。

 

このパターンを是非避けたい!

 

ので、具体的には

 

・定期的に

「休息をとる」「ちょっと動く」…例えば「窓を開けて換気」「伸びなどのストレッチをする、立ち上がるなどして、姿勢を変える」「お茶を入れて水分補給(腸活にもなる)」「思い切って、少し横になる」など

・方法として

「仕事する場所(部屋の一角)を決める」「あえて着替えて事に当たる」「したいことに関わりのないものが目に入りすぎないよう、適度に片付ける」

・心構え

「一気に、とか、できるまでやる、とか、しない(疲労せずに最後までやり遂げて笑顔で終われるよう、段階的に進行を組み立てよう)」

「やる気になるまで待つ、とか、しない(やってみて、だめだったら、一度やめよう。でもやれるかどうか、やってみてどうかを試すチャンスは自分に差し上げてみよう)」

「疲れるまでやらない。疲労や苦痛(コリとか痛み、あるいはそれを我慢して我慢の限界まで行きつく)を行動の“終了”コールサインとして使わない。“終了”は理性や知性の仕事。定点観察的に自分を見極めて、疲れる前に切り上げる、あるいは休息を一度入れる」

 

 

在宅ワークって、自分しかいない。

人によってはそれがつらいかもしれない。

他人としていた会話を、他人の目があるからしていると思っていたことを、自分でしたりしなかったりするのだから。

いや、他人とも仕事ではしたことがないような本音も交えた会話を、自分としないとわからないことまである。

でもチャンスかもしれない。

 

是非在宅という「不自由」があなたの「自由」に出会う機会になりますように。

 

 

 

2020年4月11日

自宅での自主隔離生活の話の続きを書こうと思っていましたが

おもむろに急遽保護した黒猫さんのお話を。Twittehttps://twitter.com/atcstudiokにあげたやつです。

 

事の発端は、友人からの相談だった。

 

友人が利用している駅の傍の駐輪場には数匹の猫が出入りしていたそうだ。

猫好きの友人は、自分のバイクのカバーの中に使い古しのタオルを敷いたりして、寒い折には猫たちが休憩しても大丈夫なようにしていたらしい。

ある日、いつものようにバイクのカバーをめくると中に敷いていたタオルにべったり血がついていた。驚いてあたりを見回したが、それらしい猫の姿は見当たらない。何があったんだろう?!

…駐輪場の人に話を聞いても、何があったかはわからなかったが、こういう状況を目にしてしまうと放っておけない。

TNR(強勢避妊手術をしても説いた場所に猫を戻し、そこの地域ネコとして生きていってもらう)になるかもしれないが、若そうな猫もいるので、里親募集もできるかも…ということで、私に相談が来た。

 

知り合いの保護猫活動をしている人にもアドバイスをもらいつつ、とりあえず、保護ができたら1頭はあずかれる体制を自宅に整えた。

自宅の猫たちを説得し、ケージをスタンバイ。

駐輪場がある場所は、猫が隠れられそうな場所が豊富にあり、気まぐれに餌やりさんも出没する場所らしくて(駐輪場の人が話をしようとしても逃げてしまうらしい)なかなか猫たちの行動パターンが安定が把握できない。

…とか言っているうちに友人から連絡が来た。「猫を保護した」と。

ほぼほぼ手づかみで保護できてしまったらしい。

 

うちにやってきた黒猫さん(推定6か月。女子)は「本当に野良?」というくらいおとなしく、人懐っこかった。

でも確実に野良で、何ヵ月も前から駐輪場で目撃されていた猫である。

だからいきなり自宅の猫と混ぜるわけにはいかない。病院で駆虫と検便をクリアしてからうちに来たとはいえ、病気を持っている可能性もある。ケージに隔離して、食器も別にして、2週間から1か月後の血液検査が終わるまでは一緒にできないのだ。

黒猫さんは緊張してご飯も食べないし、トイレも使わない。

うちのこら(男子猫と女子猫。7歳と6歳)まで緊張して、ご飯を大量に残し、女子猫などは風呂場に逃げようとする。トイレも使わない。いつもはゲスト猫が来ると強気なのに、どうしたことだろう。

薄氷のような緊張の中、最初の夜が過ぎた。

 

翌朝起きると、黒猫さんがくしゃみをし、鼻をたらしていた。

いかん!と速攻で近くの動物病院へ。点滴と投薬をしてもらい(ここでも超おとなしい)、自宅でも点眼・点鼻薬を受け入れてくれた。

少し体が楽になったからなのか、トイレも使い(最初は失敗していたので、トイレのフォーメーションを変更)、かりかりとお薬入りチュールも食べてくれた。

 

その日の夜は、黒猫さんは結構夜啼きをした。

野良が板についた猫さんはあまり夜啼きをしない。「鳴く」ということは、自分の存在を他者に知られる・知らせることであり、野良の世界では危険を伴うことだからだ。

でもこの猫さんは何かを表現している。

 

早朝、猫さんの点眼・点鼻(一日に5回もしなくてはいけないのだ!)を済ませた後、少しの間部屋の中を歩いてもらった。

なんとなく、ここがどこだかわからないことが不安で鳴いているような気がしたからだ。

隔離期間中なので本来はNG行為なのだが、幸いうちのこらは遠巻きに見てはいるがとびかかるような状態にはないし、とにかく部屋の中を歩いてもらった。黒猫さんは素早く、姿勢を低くしつつもあちこちを見て回った。

印象的だったのは、窓辺の椅子に上がったときだった。そこでだけはしばらく立ち止まってじっと外を見ていた。

その光景を見ると、「外を恋しがっている」「出たがっている」と想像してしまうかもしれない。

でも私が感じたのは彼女の「安堵感」だった。

「ここは、あのお外じゃないんだ…」

そんな感じだった。

そのあと、ケージに戻った黒猫さんはぐっすり眠った。本当に、からだを横にして、ぐっすり眠っていた。

 

その夜、彼女は初めてケージに吊り下げてあるおもちゃで遊んだ。

彼女は案外どんくさくって、2段ケージの上の段に一発で飛び上がれず、懸垂のようなことになっては落っこちて、下にあった水鉢をひっくり返す、ということを2回繰り返したので

小さな踏み台を入れたらすごく快適になったらしい。

ケージは彼女の「おうち」になった。

 

うちのこらの態度も通常運転になった。

 

彼女の暫定名(?)は「はな」ちゃんにした。

 

今後まだ、ウィルスチェック、ワクチン接種2回、避妊手術が控えている。はなちゃんがうちのこになるのかは、まだわからない。

でも彼女の猫生に関わった人間として、彼女には幸せになってほしいと思っている。

急転直下の出会いであり、彼女の猫生も数日にして劇的に変化したことになるのだが、その劇的さに惑わされることなく、これが彼女にとって必然であれと願う。

 

このお話もまた続くと思うので、また報告します。

 

 

2020年4月9日

自宅に自分を隔離する時間が長くなっております。

 

とはいえ、個人的にこの生活スタイルは普段とそんなに変わりがあるものではない。

もともと個人事業主で、仕事はほぼほぼワンオペだし、外に遊びに行くのも好きじゃない方だから、自宅にいるのが全く苦ではない。

 

そうはいっても、「自宅にいなくてはならない」のと「自宅にいてもいい」のでは精神的な自由・不自由感がだいぶ違う。

クライアントさんと話をしていても、その方が「外に出られないから運動不足みたいで、気持ちが晴れない」と言っている内容が、実は「運動量の不足」によるものではなく(そんなに運動量に差はなかった)「精神的な拘束感(外に出ない方がいい意味は分かるから守ろうとは思うが、実際ちょっと辛い。でもその「つらい」がうまく認知できない)」によるものだったりしたことがある。

特にまじめに「やらなくてはならない事には、否定的な感情を抱くべきではない」と思っている人は、「正しいことだけど、つらい」がうまく思えなくて、「別の何か」のせいにしたりしやすい。

過激になると、「しんどい」と感じる自分を罰するような行動に出る人もいる。

そうした行動はストレス反応なんだな、と理解しておくと、その反応の仕方が癖になって苦しむことから少し遠ざかれると思う。

 

私のような基本インドア人間でも、仕事場でしていた仕事を自宅でしろ、といわれるとちょっと戸惑う。

一番の戸惑いは「自分の中の“設定”の変更」だ。

自宅は基本、自分が寛ぐ場所。自宅で書き仕事とか経理入力の一部は行うこともあるが、メインの仕事はスタジオで行うようにしている。だからスタジオでしていることを自宅で行うとなると、自分の中の“設定”…軽い人格の使い分けみたいなものが「あれ、なんか違う」という感じがし、そこにとらわれ過ぎると仕事が進まなくなる。

 

 

オンラインでのレッスンを希望された方には添付ファイルでお送りしたのだが、リモートワークを行う際の、このあたりの違和感を乗り越えるにあたっては

 

・なるべく画面の大きいデバイスを使う

・周囲を軽く片付けておく(人は意外と目に入るもので簡単に気が散ったり、相手に本当に見えているかは別として「プライベートをさらしている」ような落ち着きのなさや恥ずかしさを感じたり、そうした動揺から必要のない連想を始めたりする)。

・オンラインの便利さが今必要である一方で、全く同じことができるわけではない。それゆえに「違和感を感じたとしても悪いわけではない」と心づもりしておく。

 

と思っておくとよいのかな、と感じる。

 

 

続きはまた後日書きます。