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アーユルヴェーダの小部屋

about Ayurveda

私のアーユルヴェーダとの出会いのきっかけは手術だった。
2014年に事故で断裂した膝の前十字靭帯再建手術を受けた。私にとって初めて自分のからだにメスを入れる経験だったのだが、自分の「持っているもの」を確かめる意味では貴重な体験になった。
私にとって、術前の筋力維持、術後のリハビリテーションなどをより効果的にして身体能力と連動バランスの回復を助けてくれたのが「アレクサンダー・テクニック」だったのだが、術後に生じた体調不良(手術に伴い膝周辺にメスを入れた影響から生じた半身だけの血行不良、血行不良からくる冷え、めまいと吐き気を伴う更年期的な症状など)からの回復の助けになってくれたのが「アーユルヴェーダ」だった。

2016年に「アーユルヴェーディック・ヨガ・セラピー講師養成講座」にも参加し、以来、アーユルヴェーダのアイデアは自分にとって「快適」を保つための「日課」になるとともに、ひとの「からだ」と「生活」を理解する上での新たな視点となり、「研究課題」ともなった。

私がアーユルヴェーダを続けていられるのは、ずばり、気持ちいいから!そして、続けるから効果が出る!
その大いなる知恵と「気持ちよさ」に感謝をこめて、興味を持ってくださる方にアイデアを分かち合いたく、ざっくりだが日々できるあれこれを紹介してみたいと思う。
(2016年から行っているスタジオでのワークショップシリーズの中でも、アレクサンダー・テクニックとともにアーユルヴェーダのアイデアや、アーユルヴェーダの視点から考えたエクササイズやヨヨーガについても紹介している。興味のある方は是非お気軽にご参加を!)

朝はデトックス・タイム

アーユルヴェーダの考えに基づいたライフスタイル、1日の過ごし方は「ディナチャリア」と呼ばれる。
その中でも朝の過ごし方はなかなか重要なのだ。なぜなら前日に体内に入り、代謝し終えた老廃物などをデトックスするお時間だから。
朝をデトックス・タイムと考えているのはアーユルヴェーダだけではなく、機能性医学やナチュラル・ハイジーンなどでも同様にとらえているらしいので面白い。

「朝のスケジュール」として紹介されているのはこんな感じ。

  • 起床
  • 舌磨き と 歯磨き
  • お白湯を沸かして飲む
  • トイレに行く
  • 軽いエクササイズ
  • オイルうがいとオイルマッサージ
  • 20分ほどしてからシャワー
  • 瞑想
  • 消化によい朝食

「起床」もガチに行うなら夜明け前の、大体午前五時半くらい。お白湯も、ガチに行うなら、カップ2杯分くらいのお水をふたを開けたやかんか鍋で半分になるまで沸かしてから飲む(自分でもやってみたが、ガス代がなかなかのものになったので、現在は沸かしたら火を止めて飲んでいる)。お通じも「2,3日おきでも出ればいい」というものではなく、いきまずともバナナ大の、水に浮く、悪臭のしない便が、毎日決まった時間に出るのが「良い便通」とされる…等々、インストラクションは細かく、なかなかにハードルとグレードが高い。

そう、アーユルヴェーダでいう「健康」とはえらくグレードが高いのだ。病院で病気と言われなければ、あるいはそこそこ我慢できる症状であれば、まあ健康なんじゃないか、なーんて甘いことは言ってもらえない。

でも向き合う価値はある。
私自身の経験でいえば、術後の体調不良は劇的なほど改善されたし、これまで満腹感の一部だと思っていたものは実は胃の不調の兆しであったことに気が付けたし、ストレスがどういう身体症状や行動に化けるかにより敏感になれて、そしてそうした不調やストレスが「ない」状態がどんなに気持ちいいものかを体験することができた。
実践されたクライアントさんの中にも「自分は色黒だと思っていたけど違っていたみたい…」というくらい、顔色が明るく白くなられた方が少なくない。本当につやつやの白さになられて見とれるほど!
大げさに聞こえるかもしれないが、アーユルヴェーディックに「健康」だと「生きているだけで楽しくなる」んじゃないかと思う。
そのくらい、私たちの生活は日々ふつーに「ストレス」に対抗していて、その「戦い」から何らかの「戦利品」を獲ることなしには「楽しい」「満足感がある」「価値がある」と感じてはいけないように習慣づけられているかも、と、この朝の習慣を取り入れ始めて思った。

ガチでやる楽しさもあるが、それがハードルになって何にも始められなくなるのももったいない。
なので、まずはできるところから、部分だけでもやってみることをお勧めする。自分にとって効果的…つまり「気持ちいい」なら、たぶん自然に定着していくと思う。たとえ事情があって途切れる時間があったとしても、「途切れたことが」嫌でやめる(「デトックス習慣が」嫌で、ではなく)という罠に陥ることなく、諦めずに続けられるように続けるのも一つの知恵である。

ちなみに私が毎日やっているのが以下のような手順。

  • 起床
  • トイレに行く(たいてい小用)
  • 舌磨き と 歯磨き
  • お白湯を沸かして飲む
  • (この後トイレに行くことも。大)
  • オイルうがいとオイルマッサージ(最近、この前に鼻洗浄を加えることも)
  • 20分ほどおく間に掃除や朝の身支度(汚れても構わないTシャツや靴下着用の上)(この時間に瞑想とエクサイズをするときも)
  • シャワー
  • 瞑想とエクササイズ(通常20分から30分。時間がない時は「数秒」だけ行うことも)
  • 朝食
  • トイレに行く(大)

所要時間1時間半から2時間。事情があって全部できないこともあるが、「舌磨き」「お白湯飲み」だけはするようにしている。
私の手順は最初に見たインストラクションの通りではない。アレンジが入っちゃってるし、それが「いいこと」なのか「ただしい」ことなのかは、なんとも言えない。でも、これから先もオリジナルのインストラクションを尊重しつつ、自分にできるやり方を試していこうと思っている。

デトックスすべき「毒」とは?

アーユルヴェーダでは、排泄器官から生成される老廃物のことを「マラ」と呼び、未消化物のことを「アーマ」と呼び分けている。

「マラ」は生きている間途切れることなく続く代謝によって生み出される「体組成分の最終形」であり、大小の便、汗、爪、毛髪、体毛を指す。消化されたものや役目を終えた細胞などが排泄器官を経て排出されることは健康を保つうえで重要なことだ。そして単なる「不要品(見る価値のないもの)」ではない。「マラ」にあたるものがしばしばその個人の状態を知るための検査対象になることからもわかるように、これらは個人の「からだの成り立ち」を語ってくれる、からだからの「お手紙」のようなものでもある。

自分自身のことながら、何もしないで自分のことを知ることはできない。自身からの「お手紙」を通して自分が今どんな状態にあるのかを知るという、自己との対話もなかなか味わい深いものという気がする(読もうぜ、「お手紙」!)
だが、何らかの事情できちんと「マラ」のかたちに生成されずに体内に留まった状態になっているものもでる。これが「アーマ」で、「マラ」が完成品だとするならば、「アーマ」は未完成のまま体内のあちこちに散らばった状態のものといえよう。

「アーマ」が生じてしまう原因として語られるのが「自分のアグニに合っていないライフスタイルをとっていること」。
「アグニ」は「火」を意味する言葉なのだが、ここではその人の「消化力」を意味する。いわゆる、消化器で行う食べ物の「消化」もそうだが、消化能力はメンタル面にも存在すると考える。例えば無意識にオーバーブッキング気味のスケジュールを抱えていたとして「仕事を頑張っているのにつらいなあ、充実感がないなあ」と感じていたとするならば、その人はメンタルに「消化しきれない仕事を詰め込んで、ココロの内臓もくたくた」という「消化不良」の状態にあり、「ストレス」という未消化物「アーマ」を抱えた状態といえる。無自覚の頑張り屋さん、不安感からいつの間にか欲張りさんになっている人は要注意である。

自分に何が合っているのかを理解するのは、シンプルなことのようでいて、ときに簡単にはいかない。
本当には望んでいないことを「望んでいる」と思い込んで行動したり、「こうでなくては」と思い込んだりすることで苦しむ人たちをレッスンの場で大勢見てきた。そして本人たちは「努力が足りないから望みがかなわないんだ」とも思い込んでいることが多く、そのちぐはぐさから生まれるストレスがもとでさらに「過激で過剰な行動」をとったり、満たされたい欲求が「食欲」「物欲」、あるいは「他者(あるいは他者からの、または他者への評価)への依存」「攻撃」に化けてしまうことは珍しいことではない。
こうした状況を改善したいなら、単に表面的に症状を抑えたり、気晴らし的に衝動を満足させるのではなく、メカニズムとして自分自身の状況を理解して「アーマ」を作らないようにすることが最善にして最短の道のりなのかもしれない。

デトックスとしての「舌磨き」と「オイルマッサージ」

とはいうものの、「アーマ」を作らずに生きていくなんて、現代人に果たして可能なのだろうか…と思ってしまうほど、私たちの生活はいろいろとオーバフローしやすい。
時には生活スタイルをけっこう見直すことが必要になるかもしれない。

でもまずはできることから、だ。

今できる生活スタイルの改善策、それを軽減するためのアイデアとしてお勧めなのが前記の「朝のデトックス習慣」。
その中でも

  • 舌についたコケをとる「舌磨き」
  • からだの「つまり」をとり、しかるべきルートから老廃物を排出させるのを助ける「オイルマッサージ」

がお勧めである。
それと

  • 朝にお白湯を飲むことで、自分の体内バランスを安定させ、穏やかに消化器を起こして排泄と消化を無理なく行えるようにする。
  • 自分にとって有害な物質を摂取しないこと。体質(アーユルヴェーダでは「ドーシャ」と呼ぶ)に合った食事をすること。

これらを心がけること。

「ドーシャ」と「食事」については後で説明するとして、
まずは朝のデトックス習慣の中の「舌磨き」と「オイルマッサージ」のお話から。

「舌磨き」

起きた時、舌や歯についている少しねばねばした物質は、アーユルヴェーダ的に言うと「アーマ」、現代医学的には「睡眠中に増殖した細菌の塊(プラークなど)」といえるだろう。細菌が餌にしているものが「アーマ」なんだろうな。
ねばねば感は感覚的に気持ちが悪いものではあるが、たとえ飲み込んでしまったとしてもいきなり有害というわけではない。多くの場合、胃酸などで分解され無害化される。だが、体調がすぐれないときなどはうまく無害化できず、またこうした細菌があらかじめ体内に存在するがために感染症にかかるリスクを高めることがある。某健康番組などでもインフルエンザなどの感染症を予防する「医師が勧める健康法」の一つとして「朝一番の舌磨き・歯磨き」が紹介されたことがあるのでご覧になった方もいるかもしれない。
また、口腔内の健康は、胃腸の健康のみならず、認知症や糖尿病、誤嚥性肺炎や早産とも関わると近年言われている。「健康」は「関係性によって成立する状況」といえるので、そういう視点から自分自身を見たり日々できるケアを考えてみるのも面白いかもしれない。

「舌磨き」はU字型をした金属の専用の器具を使うのがお勧め。
スプーンのような形をしたシリコンやプラスティック製の器具や、歯ブラシでこすってしまう人もいるが、U字型のものを使うほうが汚れがごっそり取れて、舌にやさしい。また、器具のお手入れがしやすく清潔さを保ちやすい点からも金属製のU字型のものをお勧めする。

顔を洗ったり、歯を磨いたりすることと同じように、「舌磨き」はさっぱりして気持ちがいい。
私自身の経験だが、「舌磨き」を初めて最初に感じた変化は「顔色がよくなった」だった。そして続けているうちに「そういえば、風邪をひかないな」と感じるようになった。また、私は犬に対するアレルギーがありながら定期的に実家の犬の世話をしている状態で、プロテクトしていても自分の体調によってはアレルギー症状がひどくなる(呼吸困難、皮膚のかぶれ、頭痛など)ことがあるので医師から頓服薬を渡されていたが、気が付けばこの2年ほどは使っていない。

オイルマッサージ

「オイルマッサージ」についてだが、これには少し下準備が要る。
食用に売られている太白ごま油がマッサージ・オイルになるのだが、これをあらかじめ100度に熱して冷ましておく(この作業を「キュアリング」という)ことが必要。そのままの状態の油よりもサラサラになり、肌なじみがよくなる。油の持ちもよくなるといわれている。

解毒用のマッサージは、筋肉をもみほぐすマッサージや、美容目的のものとは少しテイストが異なる。マッサージによってからだの中の巡りや流れをよくすること、そして浸透したオイルが体内の毒素を腸に集まり瀧説に排出されることでデトックスされる、というものなのだ。

やり方は特に難しいものではない。手にオイルをとりながら、頭部から順に足に向かって、基本的には円を描くように軽く肌をなでながらマッサージしていくだけである。全身がマッサージの対象だが、時間がない時は頭や顔と足だけでもなかなかよい。あと、気分的に不安定だな、と思うときや、疲れが強い時は夜寝る前に行うのもよい。
また、手足をマッサージするときは、男性は右から、女性は左から、と教えられる。陰陽(月と太陽)の考え方だと男性が陽で右、女性は陰で左、といわれるのでそれに由来する作法かと思う。
マッサージして20分ほどしたら石けんとシャワーなどを使って軽くオイルを洗い流す。が、オイルは大半肌に浸透してしまうので、意外とべたつかない。肌に潤いを残す意味でも、優しく洗うだけで十分かと思う。

「オイルマッサージ」の気持ちよさは、「舌磨き」のすがすがしさとはまた少し違っているような気がする。
これは私の感想だが、からだが温かくなって、初めてやってみたときはちょっとハイになるような感じさえあった。オイルの効果なのか「守られている感じがする」と表現する人もいたが、わかる気がする。毎日マッサージをすることで自分の健康状態にも敏感になるし、一日の初めにそれをすることは文字通り「自分を守る」ことにもなるのだろう。自分を大事の思えることが自然にできて、しかも気持ちよいと感じられるのだとしたら、朝からハッピーなことだと思う。

なお、女性は生理中オイルマッサージを中止すること。できれば生理3日目までは洗髪をしないことも勧められている。「ヴァータが過度に増大する」ことを避けるためらしい。

「オイルうがい」もおすすめ。
朝、お白湯を飲んだ後に大匙1杯くらいのオイルを用意。オイルを小指に付けて鼻の穴の中に塗る。そして残りを口に含んで口中を回すようにし、最後にぶくぶくうがいをして、ティッシュなどに吐き出す。鼻からオイルが垂れてきた場合は軽く鼻をかむ。
これも粘膜についた微細な遺物の排出と粘膜保護に効果的。喉を傷めやすい舞台俳優や、花粉症の人におすすめしたところ、「声がかれなくなった」「鼻の中が乾くような不快感が軽減された」との声が聞かれた。

「デトックス」としてのエクササイズ

「朝のデトックス習慣」の時間をとることが自分の中で自然になってきたなら、是非デトックス・メニューとしての朝のエクササイズを取り入れてほしい。その最大の恩恵は「一日の立ち上がりが早くなる」ことだろう。朝の軽い運動は、そのあとの食事のみならず、一日のスケジュールの「消化」を助け、自分の中の「流れ」を作るもの。今日の体調を計るバロメーターにもなるし、思考もすっきりする。「稽古前のウォーミングアップの時間が短くても集中できるようになった」という舞台関係者の声もある。便秘や血圧の安定にも効果的。私自身、朝は苦手だし、運動も好きではないのだが、効果があって気持ちがよいせいか、朝起きてエクササイズをすることが楽しみになった。驚き!

ここで大切なのは、エクササイズの質である。

  • 「自分に合ったもの」
  • 「毎日の日課にできるようなもの」

ということを念頭に入れてほしい。
その人の体力や運動習慣、感受性にもよるが、いかにも「がっつり運動した!」というレベルで行うのは、この「日課」としては「やりすぎ」である。がっつりした感覚の運動がしたければ、昼間に別メニューとして行うことをお勧めする。
朝の日課としては、おおよその目安として「全力の半分くらい」のテンション、あるいはそれをやや切るくらいで行える感じ、と思っておいてほしい。時間的にも忙しい朝の時間に組み込める時間を無理なく考えるほうがいいと思う。
ただし、忙しい朝でも「ながら運動」はお勧めしない。
忙しい時間帯だからこそ、たとえ30秒でも運動(「今していること」)に集中することが一日の始まりにはふさわしい。集中するからこそ身体と脳双方へのエクササイズになるのだ。物理としての筋肉は動かせば運動したことになるが、「ひと全体」のことを考えると「何をしているのか」をわかった状態で運動する方が効果的である。特に何かと慌てやすかったり、やるとなったら力んでしまいやすかったり、不安感が強いゆえに多動になりやすい人は心して「今していることに集中する」スタイルでエクササイズをすることを心がけていただきたい。継続すれば自律神経にとっても良い効果が得られるだろう。

老婆心ながら「集中」とは「緊張」ではない。「今していることに集中する」ことは、緊張して呼吸をも止めるような勢いで課題に挑むことではない。
余分と思える筋肉の緊張を抜き、目のフォーカスを柔らかくし、心配事を後ろにおいて、そのほうがよければ気持ちのいい音楽をかけて、自分にとって心地よいと思える空間と時間の中で、その状態の自分に見えるものを見ることが「集中」である。

鼻洗浄

花粉症や鼻水や咳を伴うアレルギー症状、埃っぽいところで働く時間が長い人や、喉・鼻をケアしたい人にお勧めしたいのが、「オイルうがい」と「鼻洗浄」である。

「鼻洗浄」は、専用の「ネティ・ポット」と呼ばれる小型のじょうろのような容器を用意することをお勧めする。少量の塩とぬるま湯を入れ、ポットの注ぎ口を片方の鼻に当てて顔を傾け、ぬるま湯を反対側の鼻の穴から流れ出るように通す。
洗浄中は鼻呼吸禁止。口呼吸で、あほみたいな風情になるが「あー」とか小さく声を出しながら水を通すとむせたりしなくていいと思う。
普段あまり水などが通過しない鼻の奥の方まで洗うので、最初はなんだか怖い感じがしたり、鼻の奥がつんとしたり、口にも水が入ったりすることもあるかもしれない。だが、落ち着いて口呼吸をすれば大丈夫。終わったら鼻をかんで鼻腔内の水分を取っておく。

鼻洗浄は耳鼻科で経験された人もいるだろう。私もその「耳鼻科での経験」が壁となって(耳鼻科に行くくらいだから、具合がよくないときに受けた施術だったため「しんどい」記憶が強くなっていたのだと思う)長らく鼻洗浄に手を出さずにいたのだが、やってみたら「気持ちがいい!」のでお勧めするする。
鼻腔内のみならず、目がすっきりしたり、目の疲れが軽減する感覚を味わう人も多い。目の疲れを覚える人にもお勧めである。

鼻に注ぎ入れる水の量が適量かつ安定しているほうが快適なので、「鼻洗浄」には専用のポットを使用することを勧める。ポットの素材は金属、陶器などもあるが、軽量で扱いやすいプラスティック製がよい。ややちゃっちい感じはするが、洗浄する際に片手で扱うことを考えると軽量で割れにくいことはメリットがある。

ドーシャをバランスするということ

「ドーシャ」とは、正常な状態ではその人らしい個性を、異常な状態では病気の発生に関与する、ひとの「性質」を指す。端的に「体質」と訳したりするが、感受性の発揮のされ方や物事への反応の傾向なども反映される根源的な性格と考えられている。
ドーシャは3つある。「風(ヴァータ)」「火(ピッタ)」「水(カファ)」で「トリドーシャ」と呼ばれる。誰でもこの3つを備えているが配分が異なると考えられており、個人の中で最も多い傾向のドーシャの名を冠して「私の体質はヴァータ体質」などと言い表す。
さらにここの3つのドーシャは5つの元素から構成されている。元素は「空」「風」「火」「水」「地」の5つなのだが、「ヴァータ」は「空」と「風」から成り立ち、「ピッタ」は「火」と「水」から成り立ち、「カファ」は「水」と「地」から成り立っているとされる。
ちなみに仏教でこの五大要素に「識」が加わって、人という存在が成り立っていると考える。

最近では簡単にオンライン上で「ドーシャ診断」ができるサイトもあるし、アーユルヴェーダ関係の本を手に取れば必ずドーシャに関する記事があるので、自分のドーシャに興味がある人は手にとってみられることと良いかと思う。

ただし、正確なドーシャの診断はなかなか簡単ではない、かもしれない、と思う。
ドーシャの診断は本格的にはアーユルヴェーダ医師にしてもらうものなのだが、複数の医師にかかった経験のある人の話でも「全員に違うドーシャを言われた」という人もいる。「それでいて、意外なようでそれぞれに納得するところもあるから、余計迷う」といった人もいた。

私はそれぞれが「ただしい」と思う。こう考えてみると少し受け入れやすいかもしれない。
前述のように3つのドーシャは5つの元素から成立している。だから例えば同じ「ピッタ」でも、「火」と「水」が半々の人もいれば、「火」が多め、「水」が多めの人もいることだろう。そうすると同じ「ピッタ」でも「同じ性格」とは言えなくなることの方が自然だと思う。「ピッタ」というカテゴリーに区分されることでは共通していても、まったく同じ「ピッタ」の人は一人としていないとさえいえるかもしれない。
それに、人は3つのドーシャのどれをも備えているわけだし、ドーシャはそれぞれが司る季節、時間、年齢があり、さらに受精時にドーシャが決定させる要素と、生後後天的に変化しうる要素があるといわれている。後天的な要素としては、食事や行動、心の状態、五感の働き方、どんな場所で暮らしているかといった要素になる。そう考えてみると、いつ、自分のどの側面が現れるかによってもその時に「みえる」ドーシャが異なることがあるのかもしれない。
一卵性双生児のように遺伝子レベルでは「同一」の人間でも「同一の人格」になるかというと、そうではない。様々な要因が絡み合ってその人を形作っていることを思えば、こうした状況も理解しやすくなるかもしれない。

自分のドーシャを「知る」ことは、ドーシャを「言い当てる」ことが目的ではないし、ドーシャの概念に自分の生き方を「従属させる(〇〇ドーシャの人はこういう人だと書いてあるんだから、そうなるのが正しい、というような)」ことでもない。「ドーシャ」という概念を通して自分自身のことをより深く知ること、知るべく目を向けてみることが大切なのではないかと思う。

アレクサンダーのレッスンでもそうだが、自分の行動や思考に目を向けてみると、必ず発見があるものなのだ。つまり、自分が「自分だ」と思っているものは常に「自分の部分」でしかないということである。「自分」に光を当てる角度や光の強さが同じなら「自分」の見え方も一定かもしれないが、条件が変わると「自分」の見え方・現れ方も変わる。それに加えて同じ「自分」でも調子のよい時もあれば悪い時もある。正しくあることもできるが間違うこともできる。
現れたものが自分にとって見慣れたものであろうとなかろうと、全て「自分」だとするならば、「ドーシャ」の現れ方もまたしかり、という気がするのだ。

ドーシャを参考にしながら自分の調子を整えるときに大切なのは、「足りない部分を増やす」ではなく「増えやすく乱れやすい部分を増悪させない」というバランスのとり方。
例えばヴァータ体質の人が体調を崩したときに「自分の中の少ないピッタやカファを増やさなくちゃ」と働きかけるのではなく「ヴァータ的なものが過剰になっていないか」を注意する。「類は友を呼ぶ」如くに、同質なものが同質のものをたやすく増やす、それが不調の原因、と考えるのだ。
そういうバランスの崩し方に対して人は意外に気が付きにくい。「類友」だからね。質の違いがもたらすことには敏感でも量の違いがもたらすものには鈍感なことはよくあることだ。
アレクサンダーのレッスンでも、本人が言う「できない」は「何かが足りなくて、できない」のではなく「得意なこと、たやすくできることに頼りすぎていて、結果、できない」であることが多い。レッスンでは「しなくてはいけないこと、ではなく、しなくてもいいことをしない」ことを改善の柱として考えるのだが、奇しくもアーユルヴェーダのドーシャ・バランシングと共通した考え方だ。

おおよその自分のドーシャを判別したら、それに向いているという食材を取り入れてみたり、控えめにと言われる食材を控えてみたり、季節とのかかわりを意識してみたりするとよい。きっと自分の新たな一面が見えてくるはずだ。

アーユルヴェーダの視点からみたヨーガとエクササイズの取り入れ方

自分の生命と生物としての個性を尊重して病気を予防したり健康状態を維持すること考えた場合に、勧められるエクササイズやヨーガのやり方としては

  • 静かで、清潔で、空気がきれいな場所で行う
  • 暑すぎたり寒すぎたりしない場所で行う
  • 全力の半分くらいの体力で行う
  • 是非朝の午前6時から10時くらいにやってみよう!

けっこうあたりまえのことばかりのようだが、あたりまえのことを普通に日常的行為にするには、意外と理性と寛容さが必要なのだ。

上記の指南を読んだ時にこんなふうに思った人もいるかもしれない。
「運動するのに、全力の半分くらいなんかでいいんですか?(なんか拍子抜け)」「そこそこ負荷をかけないとやった気がしない気が…」「暑いところで汗をだらだらかかないとシェイプアップやカロリー消費につながらないのでは」「筋トレにならない運動は動き損な気がする」
あるいは
「どうせ無理」「毎日なんてしんどそう」「めんどくさそう」

実際に私がクライアントから言われたことでもある。たぶん、その人の「エクササイズ」との関わり方がこれまで「それ」だったからだと思う。実行しているかもそうだが、イメージも含めて。

アーユルヴェーディックな視点で行うエクササイズはあくまで「日常を心地よく(心地よい排泄、心地よい消化、ドーシャをバランスし、ストレスを解消し、心身ともに巡りや流れをよくする、今の自分の状態を把握しやすくする)」が目的なのだ。
強化メニューは午後の体力が安定した時間に行うことがお勧め。もしも「負荷をかけて特定の目的で強化メニューを行いたい」「減量を目的としたエクササイズ」「筋トレ」が行いたいのなら、この「日課」とは別に行うことをお勧めする。「日課」を下地にするからこそ、強化メニューも無理なく実行しやすくなることだろう。メンテナンスにもなるので是非取り入れてみてほしい。
もしどうしても「そんなに多くの時間をエクササイズに割けない」「でも強化メニューも入れたい」というのであれば、全体の2割程度を強化メニューにし、なるべく毎日続ける、というのはいかがだろうか。「それくらいで?」と思うかもしれないが、毎日ちょっとずつやることの効果はなかなかのものなのだ。クライアントさんの中にも、一日1回だけ開脚前屈にチャレンジしたり、1回だけ腕立て伏せにチャレンジしているうちに、ある日試してみたら難なく、あるいは連続で行うことができた、という人もいる。継続は力なり!

「どうせ無理」「めんどくさそう」という人は、意外と完璧主義者であることが多い。ものごとの段階的習得を現実的にイメージできず、いきなり「できる」ことを自分に要求してしまい(それ以外は「できない」「失敗」という判定)、イメージの中で実行する前に「できない・かっこわるい自分」に絶望してしまうような感じ。こういう人は何事にも緊張して接していることが多いので、知らないうちに疲労をため込んでいることも多い。なので「めんどくさい」のは「疲れている」からという可能性もある。もし「あ、めんどくさいって、イメージ負けしていただけかよー」と気づいたなら、是非段階的に成功していくことにトライしてみてほしい。勝手に絶望するより得るものは大きい。

また、ヨーガを始めようかな、と思っている人は春か秋季節に開始するのがアーユルヴェーディックにはお勧めだという。からだが新しい刺激と戦い過ぎない気候的条件という意味で「暑すぎず、寒すぎない」季節から始めた方がよいと考えるらしい。過剰に神経質に考えなくてもいいが、参考まで。
自分のドーシャによってよりお勧めのエクササイズ、ヨーガの流派、ポーズもあるので、合わせて考えてみるのも楽しいと思う。

「ラサーヤナ」(老化制御)について

アーユルヴェーダには「ラサーヤナ」と呼ばれるものがある。「老化制御法」とか「若返り法」などと訳される。
魅惑的なコトバでしょ。

本格的な解毒にあたる「パンチャカルマ」同様、「ラサーヤナ」も本格的なものはアーユルヴェーダ専門病院で投薬治療などを通して受ける。だが、自分でも楽しみながら取り入れられることもあるので、ここではそのことに触れてみることにする。

舌磨き、白湯飲み、オイルマッサージ、朝の運動などの「日々の解毒」を取り入れて、自分の体調が好転し、落ち着いてきたなら「ラサーヤナ」を意識の視野に入れてみよう。いきなり「ラサーヤナ」だけを取り入れるよいも、「解毒」してからのほうが効果は高い。

ちなみにアーユルヴェーダでは「老化」をこう考えている。
ヴァータの増大
ざっくり一言でまとめると、こうなってしまうらしい。

体質を表す3つのドーシャの中の一つ、ヴァータ(風)の性質は、もともと誰の中にもある。そしてドーシャは季節や時間、年代にも対応しているのだが、年齢的に誰しものヴァータが増大する「ヴァータの季節」に入るのは50歳あたりからといわれる。
よいかたちで「ヴァータの季節」に入ると、人は「執着が少なくなり、軽やかになる」「人にやさしくなり(20歳から50歳まではピッタ(火)の季節を生きているのだが、そこからの対比か)優雅さが増す」といわれる。
しかしヴァータという「運動作用」を司る性質の増加から、どうしようもなく体内の循環や運動のしやすさに変化が起こる人生の季節でもある。具体的には「風」の性質に象徴される「乾燥」や「冷え」が増すことで起こる健康トラブルが増えやすくなる。例えば、消化力の低下(ヴァータ体質の人は消化能力がデリケート)、そこからくるアーマやマラといった老廃物の滞りが増えてきて(骨盤内の臓器や腸はヴァータが支配する場所)、精神的に幸福感が減ったり(ヴァータ性質の人は小さいことを見逃せない。細やかな感性の持ち主ともいえるが、増悪すると不安を不安がってどんどん不安になったりする)認知症状が現れる人もいる、とされる。
上記のことは、現代医学でいう「更年期」「老化」、時間とともに進行する「生活習慣病」の問題、東洋医学でも「冷えと乾燥は大病の素」と言われていること、今後のライフスタイルを考えて「断捨離」したりなどの心身共々のリセットを決断したり関心を持つ人が増える時期とも重なっており、納得しやすいのではないかと思う。

アーユルヴェーディックな「老化制御」とは「老化を拒否する」「時を止める努力」のではない気がする。
諸行無常、人は生きている限り変化し続ける。回り続ける世界の時計を止めることはできない。
でも、ちょうどサーファーが海中に身を投じ荒波にさらされながらも波にのまれず波に乗るように、ヴァータの風を嵐にしない努力をしながらも、風に逆らわず風に乗って、有限の肉体を去るところまで自分自身を運んでゆく、そういう命の風に乗ることをより意識する時間なのかな、と私は思っている。

また、年齢的には「ヴァータの季節」にない人であっても、自身の中のヴァータ・ケアが「老化」の鍵を握ることは意識したほうがよいかもしれない。ヴァータに象徴された「運動作用」は、過剰になれば過労を引き起こし、どのような年齢の人間にとっても精神をすり減らす方向に人を運ぶ。ことに現代人、日本人は、いろんなことによく気がつく精妙な感覚をフル稼働させて生きている。都会に居れば多くの人に囲まれて暮らし、スマホやパソコンなど五感を刺激しまくるものの中でなおの刺激を探していたりする。暇と平安の区別がつかず、常に何かに心を夢中にさせようとしたり、流行や人の目を気にして一つのところに落ち着いていられなかったりして、何かとヴァータ的。
平均的な栄養状態や住環境は向上して外見上の「老化」は目立ちにくくても、より中の組織や精神はむしろ「老化(過剰からくる疲労)」しやすい時代に私たちは生きているのかもしれない。

さて、本格的な療法は専門病院で受けるものだが、「アーチャラー・ラサーヤナ」と呼ばれる「ライフスタイルを整える老化抑制」は自分でも取り入れることができる。
内容は

  • 1.真実を語る
  • 2.休息と活動のバランスをとれた生活をする
  • 3.気候や季節に従った生活をする
  • 4.健全な食事をする
  • 5.慈善行為をする
  • 6.霊的理解を持つ
  • 7.暴力を振るわない
  • 8.怒りや過度の緊張を避ける
  • 9.飲酒、性行為を控える
  • 10.他者を傷つけない

アーユルヴェーダでは「これを実践する人にはラサーヤナ薬は必要ない」とまで言われているほど、大切なものと言われている。
一見、宗教的戒律や道徳とも思える内容だが、昨今突然死を招くストレスの抑制によいと言われている「アンガー・マネージメント」「マインドフルネス」とも重なるところは多い。現代人にとって見過ごせない内容であることは確かだ。

善い事をすんなり実行できれば大変めでたい。しかし「すんなり」ともいかないときもあるのが浮世の習い。「朝の解毒習慣」や「ヨーガやエクササイズを行う環境」についてのアドバイスを見た時と同様の「できるんだろうか」という感覚を持った人もいるかもしれない。
また、アレクサンダー・レッスンを指導してきた経験から言えば、いかに素晴らしいルールといえど単にルールに支配され、ルールを守るだけでは本質的な「よさ」が自分の理解と実践にならない。
なので、例えば、上記の10項目に向き合う中間ステップとして、こう考えてみるとどうだろう。

  • 1.真実を語れない(語らない)(語るのが難しい)のはなぜか
  • 2.休息や活動のバランスを乱してまで、自分は何を手に入れようとしているのか
  • 3.気候や季節を気にしないのは、何を優先しているからか
  • 4.食事は自分にとってどんな時間になっているか
  • 5.誰かの手助けをするのに、自分にどんなハードルがあるか
  • 6.目に見える、他人に認めてもらえる「成果」「利益」以外の価値を認めるのが怖いのはなぜか
  • 7.なぜ自分の思い通りにしなくてはと考えるのか
  • 8.自分は何と戦っているのか
  • 9.何から逃げたいと思っているのか
  • 10.自分を愛しているか。自分の愛しているものに愛を伝えているか。できにくいとすれば、なぜ?

そう考えてみると、最初の10項目の実施を難しくしているもの、今の自分が何をしているのか、10項目と今の自分との間にどれほどの距離があるものなのか見えてくるかもしれない。

今のあなた自身もけして10項目の指南と全くかけ離れたことをしているわけではないかもしれない。ただ、目的と手段が逆転していたり、知らないうちに「自分の望むもの」より「自分の不安感」が主体になっていたり、そのために「(そんなに、ときには、まったく)しなくていいこと」を「しなくてはいけない」かのように思い込んで、その「苦しみ」を「努力」と勘違いしている部分があるかもしれない。

まずはその誤解を解き、距離を縮めることが、無理のない「アーチャリー・ラサーヤナ」の実施につながる気がする。