読み物の小部屋

フローテーション・タンクについて

Flotation Tank & Session

過去にスタジオKで運用していたフローテーション・タンクに関する情報のアーカイブページです。使用ポリシー、これまでのセッションの様子などをご紹介しています。
フローテーション・タンク・セッションは2007年12月をもって終了しております。ご了承ください。

タンクの使用方法変更について

「スタジオK」では、今後フローテーション・タンクを「アレクサンダー・レッスンの一環として」の使用にその使用方法を統一することにいたしました。

3月21日に掲載開始をした以下の文章にも在るように、「スタジオK」ではより有効なタンクの「使い方」を模索してきました。もともと私がタンクに興味を持ったきっかけは、タンクという空間にアレクサンダー・テクニックで言うところの「inhibition」・・・なにを「しなくてはいけないか」よりなにを「しなくてもよいか」を知る・・に通ずるものを感じたからでした。外部刺激から限りなく自由になった(遮断された)ところで感じる感覚、それはアレクサンダー・レッスンにやってくる多くの人が抱えている「痛み」や「困難さ」「問題」に隠されて、感じているのに感じていることに気がつかなかった、しているのにそうしていることに気がつかなかった、存在しているのに見えていなかった、「くせ」「習慣」あるいは「自己」の在りようと共通するものがあります。自分が何に注意を奪われやすく、どのような判断に基づき、どのような行動(「からだの使い方」)をしやすいのか、そのパターンから少しはなれたところで目を開けてみたときに、自分の目には何が映るのか・・・それをレッスンとはまた違った環境で味わう、そのおもしろさと可能性に心引かれたからです。それは今も私にとってとても面白く、単なる「リラックス」(だらだら?)とは違うアクティブな解放感、あるいはケース例として紹介したように、時には依存的な状態の解消に役立つような「効果的」なものとして作用したりします。そのようにクライアントにこの場を「使って」もらえることを私は非常に嬉しく思っています。より有意義に、より質の高い場の提供のために、「スタジオK」ではその使用方法の一貫性を第一に考えることにいたしました。

フローテーション・タンクはアレクサンダー・レッスンの一環として今後も使用いたしますので、「タンクに入ってみるとよいかな」というクライアントにはこちらからお勧めしてみたり、希望を受け付けたりいたします。しかし今後は「タンクに入ること」を目的としたセッションは一切お受けいたしませんのでどうぞご理解いただきますよう、お願いいたします。

2002年5月24日 スタジオK代表 芳野 香

─── 以下、2002年3月21日より掲載 ──

「スタジオK」での運用ポリシー

タンク、そのイメージと実際の相違──奇抜さと気軽さの間──

「フローテーション・タンク」あるいは「アイソレーション・タンク」と呼ばれるこの装置は、けして最近開発された新奇の装置ではありませんが、今もってなお興味をそそる装置のようです。私の知っている範囲では立花隆司『臨死体験』を始め(一時期、この本を読んだ立花隆司ファンからの問い合わせと申し込みが相次いだということがありました)、植島啓司『天使のささやき 宗教・陶酔・不思議の研究 』(人文書院1993年2月10日第1版発行)、松田行正「code」(星雲社2000年12月15日)等にも少し登場しますし、映画『オルタード・ステイツ』(ケン・ラッセル監督1980年)、日本の作品では『エンジェルダスト』(石井俊之監督)に少し、『ISOLA 多重人格少女』(水谷俊之監督2000年)にも登場しました。(『ISOLA』では製作スタッフが取材に来ました。あまり参考にされていたとは思えませんが。また「取材で」タンクに入ったスタッフが40分くらいして「もう耐えられません」と言ってタンクから出てきたのが印象的でした。本人的な動機ではなく「取材」の義務感で入っても、ぜんぜん楽しくないだろうなあ・・)

そのような「特異な体験」への興味からタンクに興味をもたれる場合もあれば、旧・厚生省関連団体から「温泉を使用した市民向けの施設(健康ランドみたな?)に導入できないだろうか」という相談を受けたこともあります。2年程前に、たしか巨人軍がキャンプの際に大きなお風呂に塩類を入れて「浮ける」状態にし使用したというニュースもありましたし、最近ではスパなどの施設でも温水プールでフロート・チューブを使って身体を浮かせながら行うエクササイズやリラクゼーションが導入されています。そうした健康やリラクゼーションの面から興味をもたれる方も少なくないようです。スポーツクラブにタンクが導入されていた時期もありました。しかし現在ではほとんど使用されなくなっているようです。「浮く」という行為はともかくとして、それに「アイソレーション」を加える場合に、公共の施設では管理が難しい面があると思います。「浮く」ことと「アイソレーション」を組み合わせることによって深いリラックス感を得やすくなることは確かですが、それは同時に通常では気にもとめないような外部刺激にも敏感になっている、という状態でもあります。タンク周囲の環境が騒がしいと、入っても出てからも落ち着けませんし、もしもタンクに入っている最中に誰かが誤ってタンクを開けたりすると、通常以上に感覚が繊細になっていることから本当に飛び上がるほどびっくりしたり、パニックになりそうになったりすることがあります。(タンクを使った実験中に、私も体験したことがあります。しぬかと思いました)(旧・厚生省関連団体にも上記のように説明し、タンクを設置するのであれば専門に管理する人間をつけたほうがよいことなどを伝えましたが、なにぶん「公共の施設」という性質や予算の問題などもあり、断念されたようです)

これまで約100例程度のタンク・セッション・ケースをみてきましたが、その体験談は一くくりにしづらいものがあります。しいて言えば、その人にとって「おもしろい」と思えるものと、思えないものとに分かれます。

もっとも「つまらない」かもしれないケースは結果として「何も感じなかった」というものでしょう。タンクという装置に過大な期待やイメージを抱いている場合、あるいは「自分」に関する情報が大幅に偏っていたり欠落していたり、行動とは裏腹に実際には変化することを受け入れうる状況にない場合に多いようです。自己意識の幅が狭くなっている場合にはパニックに陥ることもあります(幸い、重大なパニックはこちらでは起こっていませんが。以前タンクに入って何ともなかった方でも、そのときの自分の状況によっては「こわい」「あまり入っていたくない」気分になることもあります)。例えば、『オルタード・ステイツ』で紹介されたような奇抜な体験、あるいは「意識が点になる」(と立花隆司の著作の中に、著者の感想として書かれているらしい)「自分がなくなる状態」「無我の状態」等にある種の価値観と期待を込めすぎてタンクに入られると、残念ながら「そういうことはおこらなかった」という感想しかもてないで終わる方が多いようです。それは、こちらからみていると本当に「なにもおこらなかった」わけではなく、特定のターゲットだけを見つめ続けていたがゆえに、「それ以外のこと」は最初から「ない」こととして感知されるという、体験としてちょっと残念な結果に「なってしまう」ようです。

しかしその一方で、非常に「きもちのよい体験」をしたり、体調が著しく変化したり、普段なら考えても堂堂巡りになってしまったり、苦しさが前面に出てしまって向かい合いにくい(しかし向かい合う必要があると感じている)問題に向かい合える「きっかけ」となったり、自分が踏み切れなかったことに対する「ふんぎり」のきっかけをつかむ方もいます。(具体的なケースについては後でご紹介します)

このように書くと一見対照的ですが、対照的に見えて、どの場合でも「その人の今の状態」をより深く繊細に浮かび上がらせている、ということのようにも思えます。タンクに入る効果があるとすれば、それは「現在はまり込んでいるこだわりをより深く自覚させると同時に、それをすこし変化させやすい状態にする」ということかもしれません。

1954年にJ.C.リリー博士によってこの装置が考案されて以来今なおタンクが人々の興味を引き続ける理由があるとすれば、それはタンクそのものが「特別な装置」だからではなく、それほどに自分にとって自分自身が謎に満ちた存在だからだろう、という気が私にはしています。日常生活における刺激が知らず知らずのうちに煩雑かつ固定化されるほどに「なにもしないこと」の方が刺激的と感じられるのかもしれません。それが『オルタード・ステイツ』で描かれたような奇抜な体験として描かれ、センセーショナル(サイケデリック)に感覚されることなのかもしれませんし、かたや深いリラックス感(リラックスといっても「ぼーっとする」方もいれば「意識がさえて元気になる」方もいます)を味わったり、落ち着いてものを考えられたり行動するきっかけになったりするのかもしれません。しかしその「落差」をして「価値観」に置き換えるいのはちょっと軽率ですし、人間の感覚の世界をかえって矮小化するような気がしてつまらないような気がします。タンクには「サイケデリックス」と「リラックス」という、ある意味で対照的な形容詞が冠されることが多いですが、「入ればそうなる」というような自動的な(タンクに主導権がある?)ものではなく、あくまで自分自身の「今の状況」の問題です。

より有効で心地のよい運用の仕方については、私も模索中の状況ですが、奇抜にでもなく、お気楽にでもなく、気軽だけれど真摯に、使い道を考えていきたいと考えています。

アレクサンダー・レッスンとの併用のすすめ

アレクサンダー・レッスンでは、身体の状況に主なる焦点をあて、「認識」と「行動」の関係を探っていきます。たいていの方が習慣化した損傷や痛みなどの「からだの問題」をきっかけにレッスンにいらっしゃるのですが、それら「体質」「職業病」「弱いから」などと「おおざっぱ」に片付けられがちな原因の特定しにくいしつこい症状は、自分が思いがけず行っている「力の入れすぎ」や「知らないうちに行っている行動」に起因していることが少なくありません。しかし同時に「知らないうちに」(無意識に)とはいえ、繰り返しているにはそれなりの理由があり、それは特定の動作や行動に限定された問題ではなく、その人の感受性の傾向や考え方の傾向にも及んでいることが少なくありません。

もともと「フローテーション・タンクを導入すると面白いかな」と思ったきっかけは、アレクサンダー・レッスンに来ていらっしゃる人たちにより深く、繊細に「自分自身というもの」と向かい合えるきっかけ(機会と場所)を作れないだろうか、と思ったからでした。アレクサンダー・レッスンで取り上げる動作は、いずれもその人にとって「いつものこと」と言えるような、「特別ではない運動や動作」が多く、運動強度としてもけして激しいものではないことが多いのですが、それでもその方の状況によっては(「からだを動かす」ということに対して心理的な「かまえ」がある方もいますし、「あたりまえ」すぎてかえって「みえずらい」方もいます)自分の筋肉の動きや、「動作しなくては」「わからなければ」という意識そのものがある種の「めつぶし」になってしまい、「それ以外の状況」が感覚しずらい環境になってしまうことがあります。そこで、より身体運動が最小限で、しかも外部からの感覚刺激が少ない状況で「自分の状況」をみてもらうことが、自分が「いつもしていること」と思っていることと恐らく同時並行で感じていたり行っていたりする「それ以外」のムーブメントに気がつきやすい環境を与えてくれるのではないかと考えたのです。

また、アレクサンダーのレッスンの中で、クライアントの身体認識の「ずれ」が確認できることが度々あります。例えば、実際の関節は「ここ」にあるのに、自分が関節だと思っていた場所はそこではなかった、というような。いずれも「当たらずとも遠からず」といった「ずれ」加減ですが、微細とはいえ「ずれ」が保持され続けることは身体に損傷やストレスを与える原因になっていたりしますし、「ずれ」の存在に気がつき解消されると、身体の動きや動作に伴う疲労感は大幅に解消されたりします。その一方で、本人が自覚的に負担を感じるていながらも、その「ずれ」を保有し続けられたのはなぜか、そこに「ある」ものを「ない」と思う認識とは、どのようにして成立し維持されるのか・・ということを考えたりします。例えば、脳に損傷を負った人が現に存在する足や手の感覚を失う現象がある一方で、外科的に手や足を失った人が存在しない手足の感じを感じる「幻肢」と呼ばれる現象があります。こうした現象は「幻覚」や「異常感覚」として片付けられてしまうこともありますが、本人にとってはまぎれもなく「リアルな体験」です。そしてこうした現象は、物理的に手や足があったりなかったりするから生じる現象というのではなく(発覚の原因にはなりますが)、日常的に知覚と認知の世界で起こっている現象なのではないか・・とも考えられます。身体感覚の曖昧さが自己や体験に与える影響とはどういうものなのか、タンクはそれをレッスンとはまたすこし違う形で提示できる機会になるのではないかとも考えました。

レッスンを受けた方のタンク体験は、派手なショックに満ちた体験というよりも、むしろ「やっぱり」と体験者が自分の「感じたこと」に深くうなずくような、感覚と体験になることが多いようです。ある種、サイケデリックな体験(光を見たり、昔の記憶を鮮明に思い出したり等)もありますが、それを「異常」と感じるとか「興奮して」イベント的に体験するというよりも、それすら落ち着いて体験する感じになるようです。あるいは取り立てて強い感覚が感知されなかったから「なにもわからなかった」というのでもなく、「落ち着いて淡々と」自分の体験を受け止めることができることが多いようです。

こちらではタンク・セッションのみも受付はしていますが、これまでのケースをみていると、特にタンクにお入りになるのがはじめての方はアレクサンダー・レッスンを受けてから入られることをお勧めしたいと思います。あくまで統計的な傾向ですが、タンクのみでのセッションの場合、その方の「無自覚の癖」が障壁になることが少なからずあり「感じ方がわからない」ままにタンク・セッションが終わってしまうこともあります。例えば、本人にその自覚はなくても実は肩が凝っている場合など、タンクに入っても「肩や首がいたい」ということが前面に(全面に)出てしまい、それ以外のことが感覚できないまま終わってしまうことがあります。本人としては「肩など凝っていない」つもりだっただけに、感覚そのものの「大きさ」というより、その「意外さ」のインパクトのほうに知覚の注意力が奪われてしまう結果になるようです。同じように肩や首が凝りやすい人でも、そうした自分の傾向を「具体的に(なにをしているから、そういうときに、どうして凝りやすいのか等)」レッスンを通して知っているのと知っていないのとでは、体験の受け止め方が異なってくるのです。タンクでの体験は、いずれも刺激が「量的に大きい」ものではありませんが、それは必ずしも「感知する刺激が小さい」ということではなく、むしろ普段よりもずっと微細な変化に敏感になれるからこそ、非常に多様な体験になりえます。その体験をどのように受け止める状況にあるかによって、タンクでの体験はつまらないものにもなりえますし、パニックになることもありますし、有意義な体験にもなります。

フローテーション・タンクの可能性

その誕生と現在での研究の方向性、臨床への応用状況

そもそもタンクは1954年、当時アメリカの国立精神衛生研究所(National Institute of Medical Health)で感覚遮断による脳と心の研究を行っていたリリー博士(J.C.Lilly)によって考案された装置でした。この研究は軍関係や宇宙開発などの領域も巻き込み、1950年から70年代にかけて盛んに実験が行われました。ちなみに「感覚遮断」とは音や光などの刺激を極端に削減した環境を指します。そうした環境下での人間の行動、心理、生理の変化を観察するのが研究の目的でした。タンクの他にもさまざまな「感覚遮断」の方法が考案されたようです(例えば、ある種の目隠しをして無響室に入るなどの)が、その中でもタンクは効果的な遮断装置だったようです。(余談ですが、萩尾望都の1985年の作品『スローダウン』の舞台もフローティング・カプセル以外の手段での感覚遮断実験室が物語の舞台となっています。物語中の実験の目的や実験方法が実際の実験とどの程度相違があるかはわかりませんが、実験室から出てきた主人公が自分の「実感」と呼んでいた感覚に疑念を持ち始めるところなどには、共感を持てるところがあります)何の刺激もない空間に入ると、人間は活動休止の状態になるのでは・・との予想に反し、「幻覚」や感情や身体感覚の極端な変化が報告され、一つのブームになりました。この時期の報告を踏まえて、いまだにある心理学系の本では「入るとパニックになる」などと書かれているものもあるようですが、一方で深いリラクゼーションや瞑想状態の体験等の「こわくない」報告もあります。現在では個人の「異常な」体験に焦点をあわせる研究よりも、生理学的な見地からストレス・マネージメントや、依存症の改善、不眠症治療への応用などが研究されているようです。

1999年アメリカ・カナダの大学研究室訪問・印象記

1999年6月11日から10日間の日程で、「スタジオK」のタンクの設計者でもあり、現在東北大学情報科学科研究員である岩田一樹博士と、フローテーション・タンクを保有し研究に用いているアメリカとカナダの大学を訪問してきたことがありました。Medical Collage of Ohio,Toledoと Washington State UniversityとUniversity of British  Colombiaの3ヶ所を回ったのですが、10日間で13回も飛行機に乗るという強行軍でした。Medical Collage of Ohio,ToledoのDr.T.Fineは精神科の助教授であり、生理学者との共同研究などでタンクを使用しておられ、Washington State UniversityのDr.A.Barabaszは非常に精力的な研究者であり、「ドライ・タンク」なる濡れずに入れるフローテーション・タンクを考案されていたりされている方でした。残念ながらUniversity of British  Colombiaでは研究室を訪問し研究員の方に少しお話を伺っただけで教授(Dr.P.Suedfeld)とはお会いできませんでしたが、コンクリート張りの部屋にどーんと置かれたタンクが印象的でした。

非常に大雑把な紹介になってしまいますが、研究テーマとして大学でタンクを扱う場合、最大の問題となるのは被験者の体験談を「どのように聞くか」という問題です。当初は「幻覚」などと呼ばれた「通常とは違う体験の報告」も、現在では精神生理学的な方向で「読む」研究が進んでいますが、体験とは極めて個人的なもので(だから面白いのですが)、個人の体験としては面白くそれなりに有意義な時間ではあっても、それによって「要するに一般的にタンクでの体験(効果)とはどういうものか」ということを学術的に表現するのは非常に難しい作業と言えます。また、私自身も大学の実験の被験者になったことがありますが、実験環境はこちらでのレッスンやセッションとは環境設定が違うので、「心地よい環境」とはいえない条件のもとに実験が行われる場合も少なくありません。そうしたことがタンクを使用した実験にどのように影響するか等々を考えると、「実験で起こった体験が、実験ではない状況での体験とどのくらい同じなのか」ということもなかなか難しいと思います。難しいですが、研究と言うかたちのアプローチも重要です。岩田氏の研究では、覚醒時や睡眠時との比較もなされており、タンクに入った状態と睡眠との生体情報の相違なども研究され、評価されています。

「タンクは依存症や周期的な痛みの緩和に効果的」という報告も聞かれました。私のほうにも「アメリカ在住のものだが、今度仕事で日本に行きます。私は自己の後遺症の痛みを緩和するために毎日自宅でタンクに入ることを欠かさないのだが、日本滞在中にタンクを使用できないことが不安でならない。東京と京都はどのくらい離れているのか?タンク・セッションは可能か?」という問い合わせが来たことがありましたし、Dr.Barabaszの論文の中には「禁煙希望者に定期的にタンクに入ってもらった結果、他の方法よりも効果的に禁煙に成功できた」等の報告もありました。研究者の中にはセラピストとして開業し成功している例もあると聞きました。フローテーション・タンクではありませんが、それとよく似た外部刺激を遮断する空間「チェンバー」を数日に渡って使用し、薬物依存からの回復を助けるプログラムもあるようです。

ただ「チェンバー」はともかくとして、「濡れずには入れるタンク」として紹介してもらった「ドライ・タンク」(ぶかぶかのウォーター・ベットを敷いたカプセル)は、やはり触覚的に刺激が大きく、少なくとも私個人としては「外部からの刺激を遮断している」とは言いがたい状況だと思いました。また、タンクに入っている時間に関しても意見の相違がありました。私のところでは1時間、人によってはもっと長い時間を希望されることもあるのですが、そこの実験では「20分程度」との返答でした。なぜ20分なのかを聞くと、「それ以上拘束時間を長くすると被験者が協力してくれないから」とのことでした。アメリカの大学における研究費をゲットするための壮絶な「戦争」状態は小耳にはさんだことがあります。「こんなに役立つ研究ですよ」「皆さんのためになりますよ」という「セールス・ポイント」を打ち出さなければ、助成金が降りないという現実は、日本でも共通したところはありますが、アメリカのそれはさらに激しいようで、しかもその「セールス・ポイント」が「クイック&イージー」の方向に設定されているのかもしれません。その価値基準のあり方に対してあまりにも無疑問になることは、少々淋しいことに思えましたが。

文化によって、同じ行動でもそれをどのように捉えるかが変わってくることがあります。例えば、日本の能や歌舞伎を始めてみたアメリカ人が「どうして日本の役者は無表情なの?」と言ったことがあります。彼女にとって「表情(表現)」とは「写実的」に「あらわされているもの(あらわれているもの、というよりも)」を意味していたらしいので、様式化された表現手法を目撃していても自分が何を見ているのかわからず、何も「読み取れない」のでした。同様の会話が同じ西洋の芸術であるバレエについてもありました(フランス人ダンサーとアメリカ人ダンサーとの会話でしたが)。「様式」によって支えられた「リアリティー」に親しんでいない人間の目には、時に「様式的演技」のリアリズムはただの「手順」にしか映らないことがあるようです。日本では劇団四季が上演して大ヒットしたミュージカル『ライオン・キング』の演出家ジュリー・ティモアは、動物たちが主人公で、物語上人間が一人も登場しないこのミュージカルに「リアリティー」という命を吹き込むために、インドネシアの影絵に見られるような様式的な演出を取り入れて成功をおさめたのですが「スタニスラフスキー式リアリズムしか知らないアメリカの訳者には彼女の意図がなかなか理解できなかった」という苦悩をあるインタビューの中で告白していました。リアリティーとは何か、必然性とは何か・・そんなことを考えているうちに、J.C.Lilly博士の中ではどのような必然性でタンクを考案したのか、彼らの体験と私の体験とは本当に同じものなのだろうか(当然違うわけですが、それこそしっかりしたリアリティーを持って「違うんだろうなー」と・・ということなども考えました。具体的には個人の体験と情報という、個人の文化によるところが大きいとは思いますが、茶室とか、座禅とか、瞑想というものを文化として保有する日本人にとってのタンク体験と、それらを「気取ったスタイル」「自分たちにはないもの」としか読み取れない(もちろんそういう人ばっかりじゃないけれど)アメリカ人とでは、そこに何を感じるのかは、おそろしく違うものといって間違いないでしょう。

参考文献

Lilly J C.  Mental effects of reduction in ordinary levels of physical stimuli on intact healthy person.  Psychiatric Research Reports,5:1-28, 1956

Kazuki Iwata, Mitsuyuki Nakao, Mitsuaki Yamamoto, Masayuki Kimura, Differentiation of physiological states under sensory deprivation based on distance measure of biosignal dynamics. The Methods of Information in Medicine. 39:168-170,2000

Barabasz M and Barabasz A F. Treatment of trichotillomania and smoking with hypnosis and rest. In Barabasz A F and Barabasz M,editor, Clinical and experimental restricted environmental stimulation:New developments and persepectives, pages 145-156. Springer-Verlag, 1993

Barabasz M, Barabasz A F, and Dyer R. Chamber rest reduces alcohol consumption: 3,4,12, and 24 hours session. In Barabasz A F and Barabasz M, editor, Clinical and experimental restricted environmental stimulation: New developments and perspectives, pages 163-173.Springer-Verlog, 1993

Barabasz M. Rest: A key facilitator in the treatment of eating disorder. In Barabasz A F and Barabasz M, editor, Clinical and experimental restricted environmental stimulation : New developments and perspectives, pages 121-126. Springer-Verlag, 1993

Suedfeld P. Sensory deprivation used in the reduction of cigarette smoking; Attitude change experiments in an applied context. Journal of Applied Social Psycology, 3:30-38, 1973

Suedfeld P. Restricted environmental stimulation: Research and clinical applications. Wiley, 1980

Suedfeld P and Ikaed F F. Attitude manipulation in restricted environments: Iv. Psychologically addicted smokers treated in sensory deprivation. British Journal of Addiction, 68:170-176, 1973

Suedfeld P and Ikard F F. The use of sensory deprivation in facilitating the reduction of cigarette smoking, Journal of Consulting and Clinical Psychology, 42:888-895,1974

Fine T, Mills D, and Turner J. Differential effect of wet and dry flotation rest on eeg frequency nd amplitude. In Barabasz A F and Barabasz M, editor, Clinical and experimental restricted environmental stimulation: New development and perspectives, pages 205-213. Springer-Verlag, 1993

Fine T and Borrie R. Flotation rest in applied psychophysiology.    http://www.concentric.net/~tfine/(リンク切れ)

「あたりまえ」とは何か(意識の方向性の固定化と多様性)

私はレッスンやセッションという「個人のための場」を提供することを仕事としているわけですが、仕事を通じて感じることは、「あたりまえ」とは実は非常に「ローカル」なものだということです。ある意味で、誰もが自分だけの言語をもち、自分の文法で物事のつながりを表し、思考していると言えます。そうした固有性と同時に、共通概念も保有しているからこそ「あいまいに」「かろうじて」他者とのコミュニケーションというものが成立しているような気がします。たいていの場合、著しく概念がずれて不快感を伴い、お互いの「ローカリズム」が露呈したときに、人は「ずれ」に気がつくものですがが、「すれ」自体は気がついたそのときに「生じた」ものではなく、実は常に「ずれていた」ものであることが多いような気がします。そして「ずれ」は自分と他者との間にだけ存在するものではなく、自分の中にも存在するものです。例えば、「こころ」と「からだ」の間に。「認識」と「行動」の間に。

アレクサンダー・レッスンを通して「からだの使い方」をみていると、人間は自分の身体能力を満遍なく使っているわけではなく、生活パターンの中で極限られた部分しか使わないことが多く、しかもそれが身体構造からずれていても長らく気がつかないことさえある、ということにある種の「たくましさ」を感じることがあります。「ずれ」との出会いはおせじにも幸福な出会いとは呼べないことが多いですが、「ずれ」はそのまま「フレキシビィリティ(可動域)」に変わることがあります。自分が「いま、どこにいるのか」さえわかれば。

他人と同じになることを強要するような「いっしょ」さ加減でもなく、自分が自分であるために他人を排除することに忙しいような「じぶん」さ加減でもなく、尊重しあえる「ローカリズム」の距離とか関係って、ないのかなあ・・というのが私の個人的なテーマでもあります。だから私は「あたりまえ」であること、「日常的であること」にこだわりたい。他者との比較や固定化された自己からの逃避と言う意味で、エキセントリックでサイケデリックであることよりも。

長田弘の『記憶のつくり方』という詩集の中に『明るい闇』という詩があるのですが、タンクでの体験を思うときに、この詩のことを思い出すことがあります。あるいは、直島の「南寺」というジェームス・タレルの作品の「闇」の中で、スキップしたときのことを。

世のなか、右も左も真暗闇じゃございませんか。ひところ、そんな歌が流行したことがある。そのとき、ちがうと思った。「闇」という言葉を「真暗闇」という感覚でしか捕らえられなくなってしまった時代の不幸を、その歌の文句に感じた。  真暗闇というのは、つくられた白い光りに慣れた目が、突然その光りを絶たれたとき、とっさにつかんでしまう偽の感覚である。闇は、ほんとうは明るいものだ。ほの明るいものなのだ。  蛍光灯の光を消す。いきなり、すべての視力が奪われる。だが、それはまだ闇ではない。なぜなら、目はそれからすこしずつ、ゆっくり回復する。すこしずつゆっくり、事物たちが、それまで光りによって匿されていた輪郭とたたずまいをあらわにして、闇の中にあらわれいでる。(以下略)  「明るい闇」長田弘

ショックやインパクトに押されて、「みているもの」が「みえて」いないのではないか、「感じている」ことを「感じられて」いないのではないか・・・そうやってショックやインパクトにアディクティヴになっていくことは、ちょうど、くどい味付けに慣れすぎて、野菜や水の味がわからなくなっていくような、賑やかで華やかなイベント続きの毎日のように見えて、内心は退屈しているような、そういうことなのではないかな・・と思うのです。そういう「日々」がしばらくあってもまあいいけれど、それがまるまま自分の「人生」になっちゃうのはつまらないなあ、と思ったりします。用事を済ますために動き回るのも悪いことではないけれど、ときどき自分の感じていることをゆっくり感じてみるのも悪くない気がします。逃避ではなく、サボりでもなく、生きていくために。

あえてエッセイ風に書いてしまいましたが、どちらかといえば、テーマパークやディズニーランドに行くようなノリというよりも、茶室やお気に入りの美術館に行くような感じで、タンクを楽しんでもらえるといいかな、と思っています。

タンク・セッションの手順

カウンセリング、あるいはアレクサンダー・レッスン

セッションの予約日当日、まずは少しお話をすることからタンク・セッションは始まります。アレクサンダー・レッスンとのセッションを予約されている方はお話の後レッスンに移行します。今日の気分をお聞きしたり、タンクに入る前にちょっと身体を整えたい場合には、軽くストレッチ運動をしたり、自分の身体を内観することなども行います。

シャワーを浴びる(水着を着用)

準備が整ったらタンクに向かいます。その前にシャワーを浴びていただき、身体の油分やお化粧などを洗い流します。シャンプーやボディ・シャンプーなどはこちらで用意しています。この際に水着に着替えていただきます。

タンク室へ

タンクのある部屋に入ってもらい、まずはタンクの扉を開け明かりのあるままの状態で、浮き具合をチェックしてもらいます。自分が心地よく浮ける状況を見つけることはとても大切です。少しタンクの中を泳いでみたり、手足を広げてみたり、深呼吸をしたりして、安全で快適な姿勢を見つけてみます。

「いってらっしゃい」タンク・セッション開始

それではいよいよタンクの扉を閉めます。タンク内には豆電球がセットされており、扉を閉めても数分間はこの電球をつけたままにしておきます。2,3分後に明かりを消します。その後はタンク内からの呼びかけがない限り、こちらからは1時間経つまで声をかけません。1時間が経ったら、また豆電球をつけて合図をします。なお。水着が不快な方は、この際に脱いでいただけます。また、タンクの水は大変「にがしおからい」ので、目や口に入ると心地よくないと思います。タンク室の中には真水も用意してありますので、セッション中に目や口に水が入った場合は無理に我慢をせず、声をかけてください。真水で目や口を洗ってから再びお入りいただけます。

「おかえりなさい」タンク・セッション終了

1時間後、明かりで合図をし、扉を開けにいきます。水着を着用されていない場合はご自分で扉を開けてもらうことも出来ます。なお、タンク室には塩水専用のタオルとバスローブが用意されていますのでご利用ください。

再びシャワーを浴びる

タンクの水は硫酸マグネシウムの水溶液ですので、そのままでは身体が「塩だらけ」になってしまいます。ゆっくりシャワーを浴びていらしてください。

お茶を飲みながら、しばし休憩

以上でおおむねタンクのセッションは終了です。タンクでは大きく動くわけでもありませんが、代謝が促進されて喉が渇いたりします。ミネラル・ウォーターやお茶などを召し上がっていただきながら、しばし休憩していただきます。「休憩」といいつつ、この時間にタンクの中でのことを色々思い出したりすることがあります。タンクの体験は「タンクの中で」完結するというよりも、自分の中でどのようにとらえられたかという、記憶になって完結する要素が大きいようです。つらつらとお話をしながら「そういえば・・」と整理されてくることもあるかもしれません。また、その後1週間くらいの自分の様子をみていていただくと、少し知覚の仕方が変わっていることに気がつくことも在ります。食欲や、ものの味わいや、気のつき方など、小さいことかもしれませんが、さまざまな場面で変化があることがありますので、少し自分のことを見守ってあげてみてください。

注意事項

タンク・セッションの後は、平衡感覚や方向感覚がすこしいつもと違う感じになることがあります。念のため自転車やバイクではいらっしゃらないほうが無難かと思います。また、タンクの後は非常にデリケートにですが「いつも使っている範囲以外」の知覚が敏感になっている場合が多いです。その感覚は人によっては「ぼーっとしている」と感じられるものであったり逆に「感覚が冴えている」感じであったりします。せっかくですので、タンクの後のご予定はあまり入れずに、ゆっくりと時間を取れるようにしていただけるとよいと思います。

セッションをお受けできないケースについて

ジェネラル・インフォメーションにも記載していますが、本人の自覚に関わらずあまりにも緊張が高くパニック等の行動になると判断された場合、セッションを中止することがあります。また、精神科に通院中、もしくは投薬中の方は事前にご相談いただくことになっていますが、事前のご相談いただかずいらした場合、あるいは事前にご相談いただいても当日危険と判断された場合も中止させていただくことがあります。
また、まれに当方に内緒でアルコール等の薬物を服用してタンクを使用しようとされる方もいらっしゃいますが、こちらでは一切お受けできませんのでご了承ください。
以上のような場合でも、セッション代金の半額を申し受けますのでご予約の際はご注意ください。

セッション・ケースについて

多くの方がよくおっしゃるタンク内での感覚は「寝入りばなの覚醒とも睡眠ともつかないような状態が、ずーっと続いているような感じ」というものです。ただ、これがどのような体験なのかは故人によって意味づけが分かれるところでしょう。多くの方が「深いリラックス状態」を感じる(つまり睡眠状態よりの覚醒状態?)一方で、「自分が奥底に抱えている(身体的、心理的、あるいはその両方の)問題の存在を意識した」(より覚醒的な、しかし通常の覚醒状態よりマイルドというか、異なった捉え方で物事に向き合っている)という方もいらっしゃいます。

以下にご紹介するのはほんの一部ですが、特に印象的だったセッション・ケースを紹介しておきます。ある意味、「特異なケース」といえるかもしれないケースですが、単に珍しいというのではなく、意識の状態や刺激に対する認識や反応が「ふだん」と異なって捉えられた場合におこりうる例として読んでくださるとよいかと思います。プライバシーの問題からお名前や年齢、症状に関する情報が一部あえて不鮮明な表現になっている場合がありますが、ご了承ください。

身体的影響が大きかった場合

Aさんのケース(60代 女性)

Aさんは病気の後遺症から普段は補聴器をつけないと会話の音声が聞き取れない状況にありました。補聴器の使い心地は彼女にとってけして満足のいくものではないようでしたが、「こうしないと何も聞こえないので」補聴器を使用していました。

ところが、タンクから出ていらしたAさんに補聴器をつける前に声をかけてしまったところ、それが「聞こえる」ことがわかったのです。その後1時間ばかりお話をしていましたが、こちらは少し大きめの声でゆっくり話すようにはしていたものの、補聴器を使用しないまま会話が出来ました。どうやら彼女の難聴は「過敏性難聴」と言われる症状だったようです。病気の後遺症から音が聞こえにくくなって以来、彼女は「聞かなければ」というプレッシャーと暗に戦い続けていたようです。人の知覚に「聞こえている」と感じられる音は、存在するする音全て近くされているわけではなく、実は選択的に聞き取られているものです。例えば、BGMのうるさい喫茶店などで友人と話をしている場合、音量としては周辺の音の方が大きい場合でも、自分の知覚には友人の声が周辺の音に負けずに聞こえている、ということがあると思います。知覚の集中度を絞ることによって、物理的には届いている音を「聞こえていない」ことにし、音量としては小さな音を知覚の世界ではクローズアップして聞き取る、ということは誰しも普通に行っていることです。しかし彼女の場合、「自分には音が聞こえなくなるのではないか」という思いから「聞こえない」ということに過敏になり、集中したい音声とそうでない音声の「絞込み」が出来ない状況になっていて、かえって何も「聞こえない(自分が何を聞いているのかわからない)」状態になっていたようです。どうやらタンクに入ることをきっかけに、この状況が変化したようです。

Bさんのケース(30代 女性)

Bさんは先天性の身体障害があり、自分の身体の一部が自分の意思で動かせない状況にありました。そのような自分の身体に関心すら抱けない状況が長くありましたが、あるきっかけからアレクサンダーのレッスンにいらっしゃるようになり、レッスンを受け始めて2年後には以前は動かせなかった角度まで腕が上げられるようになったり、歩行が安定するなど、大変改善がみられました。心理関係のことにも興味があった彼女は、タンクの導入を知ると「一度入ってみたい」と申し出られたのです。

レッスンによって少しづつ安定はしてきたものの、「からだ」は彼女にとって受け入れがたいものであり、時には「このからださえなかったら」といった言葉も聞かれました。その中でも彼女にとって最も「役に立ってくれないところ」が首でした。自分の意思で頭を安定させたり首を動かして振り向くことが出来ないでいたからです。病院で検査をする際に筋肉弛緩剤を打つと首は動くらしいのですが、それ以外の時に自分の首が動くという体験をしたことはないとのことでした。

タンクの後の彼女の話によると、彼女のタンクの中での体験はこうでした。タンクの中で浮いてみると、ものすごい轟音が聞こえてきたそうです。「無音はずなのに、不思議だ」「まるで電車が通り過ぎてくれない踏切の前にいるみたい」などと考えながら、その轟音を聞き続けているうちに、やがてその音は自分が姿勢を微妙に変えると音が変化することに気がつきました。そしてその轟音の正体が「首の筋肉が立てている音」であることに気がついたそうです。タンクの中で温水に浮いている姿勢では、ちょうど背泳姿勢のように耳も水の中にある状態になるので、自分の呼吸音や心音がいつもよりもはっきりと聞こえる状況になったりします。最初はその「聞きなれない音」が気になる方もいますが、最終的には聞こえたり、聞こえなくなったりと、「違和感」として意識はしなくなるようです。筋肉の立てる音は、それらに比べると聞こえにくい身体の音の部類ではありますが、筋肉の使い方如何によってはその動きが音として聞こえることもあります。自分の意思で動かすことの出来ない首が、働いたり、動いたりしていることなど、これまで考えもしなかっただけに、驚いたそうです。結局彼女はタンクに入っている間ずっとその「首の立てる音」を聞き続けていたそうです。「全然「感覚遮断」じゃなかったですよ」などと彼女は笑っていました。

1週間後、いつものレッスンで彼女はやってきました。そうすると、左右に10度から15度くらいの角度でですが、首が自分で動かせるようになっていることがわかりました。その後もその可動域は失われることなく、安定していました。タンクセッションとの直接の因果関係はなんともいえませんが、自分の身体機能や身体能力に信頼感がない場合ほど、余分な力を入れて動かそうとする傾向を無意識に持っている方は少なくありません。その「力み」がかえって可動域を狭めているのですが、本人の知覚世界ではそのようにはとらえられておらず、「やはり自分のからだがだめだからだ」と思われていることは少なくありません。彼女の場合もそうであった可能性が大きいと思います。

Cさんの場合(20代 女性)

摂食障害(拒食)と入眠不安(不眠)の傾向がある彼女は、普段はアレクサンダーのレッスンを受けることで自分のパニック傾向とうまく付き合っていますが、年に1度くらい、まるで脱輪した車のように「自力ではこの軌道から抜け出せない」という状況になることがあり、そういう場合にタンクに入ると自分で立て直せる「体力」を取り戻すきっかけがつかめるようです。

何日も眠れず、わかっているのに食べたり吐いたりすることが止まらなくなると、身体も衰弱しますが、「脱輪状態」のときはそれに反して神経はとんがってしまうので、余計辛いようです。多くの人がタンクに入るとそれほど動かず、静かに浮いた状態を保つ時間の方が長いのですが、彼女の場合はずっとタンクの中で動き回っているらしく、少し泳いでみたり、時にはうつぶせになってみたり、闇の中で動き回っていて「楽しい」のだそうです。タンクの外の世界ではぐったりとして動けない状態になっていたのに、対照的です。タンクから出てくると顔立ちもすっきりとし、ものを口にすることも抵抗がなくなり、その夜からは眠れるようになるそうです。その感じを「あるべきところに内臓や目鼻が戻ってきた感じ」と表現していたのが印象的でした。

精神的(?)影響が大きかった場合

Dさんのケース(50代 女性)

期せずして、彼女がタンクに入り始めたのは癌と診断されてからでした。彼女がタンクの予約をされたのは診断が出る前だったのですが、タンクセッションの当日にはもう診断が出ており、何日か後には手術の予定が決まっていました。Dさん自身の症状は初期で、手術も難しいものではないというものの、親族の中にも何人か癌で亡くなった方もいるので、内心の不安は強かったようです。しかし彼女は「不安に思ってはいけない」というプレッシャーと戦っているようでした。

タンクに入り、明かりが消えると「想像以上に暗い」と感じられ、とても怖かったそうです。しかしタンクに入っていらっしゃる間、彼女からの呼びかけは何もなかったので「怖かったのに、出ようとは思わなかったのですか?」と聞いてみると、少し考えてから「怖いけれど、みてみたいと思った」と答えてきました。そういいながら、自分の言い方に驚いたようで「私、これまで怖いと思うものはその時点で切り捨ててきたのに・・」と話されていました。

その後も彼女は何度かタンクに入りにいらっしゃいましたが、回を追うごとに体験は変化していきました。最初は「闇」というものを「光がない」状態、「無音」というのを文字通り「音がない状態」としかとらえられなかったのが、何回目かの時に突然「光がないのではなく、闇というものがあるのだ」と思ったそうです。そのとたん、身体が楽になり、「水が自分を支えてくれている」感じがして、不安感が消えてしまったそうです。

タンクから出てきたあとの彼女はいつもニコニコとしていて、たいてい「ああ、お腹がすいた」と言っていました。「お腹がすいたと思って、食事をすることなど、考えてみれば余りありませんでした」とおっしゃるのが印象的でした。

Fさんのケース(50代 女性)

心理関係のカウンセラーとして働きつつ、医師である夫との見解の相違、子供さんの拒食症など、彼女を取り巻く環境は常に煩雑で、しかも自分のために時間を使うというよりも「ひとのため」に費やす時間のほうに常にプライオリティーがおかれ、自分のことを考えようとしても「かえって緊張してしまう」という状態でした。「からだの使い方」という、目的は彼女の仕事としているところとも共通しつつも違うアプローチから自分の問題に触れることで、彼女は「自分のことを考える緊張」から少し解放されつつありました。

彼女がどうしてタンクに入ってみたいと思ったのかは、よくはわかりませんが、何となく彼女の中で切実な要求でもあったようです。「からだがこわばるなあ」と言いながら緊張気味にタンクに入っていかれたのが印象的でした。1時間が経過し、タンクの扉を開けると彼女はなぜか180度反対の方向を向いて浮いていました。どこにもぶつからず反転するのはスペースの関係から難しいはずなのですが、彼女は「全く気がつかなかった」と言います。「最初は水の揺れが気になって緊張していたけれど、後半になって安定してきて、最後のほうはすごくサポート感があった」とのことでした。

その後の彼女の報告では、「最近、一人で行動することが怖くなくなった」とのことでした。どこか行くのも、食事をするのも「ひとりで」というのは彼女には考えられなかったそうです。しかし、最近「そういうのも楽しい」と思えるようになったとのことでした。

Gさんのケース(30代 女性)

以前から身体のこわばりの問題でアレクサンダーのレッスンに通ってきていた彼女ですが、「自分の身体が緩むと泣きそうになる。すこしこわい気もする」ということを時々おっしゃっていました。しかしそれは「嫌だから」とか「悲しい」とかいうのでもないようです。そういうことをおっしゃる方は彼女のほかにもいらっしゃいますが、ある記憶(出来事や状況)とそのときの「からだの使い方(使われ方)」(筋肉等の状況)がセットで不可分な関係を保持し続け、セットをばらそうとすると「こわい」とか「泣きそう」という反応になるようなのです。昨今「家庭内暴力」や「幼児虐待」という言葉も市民権を得てきましたが、当時同居中の両親に対して彼女の中には「ひょっとしたら、あれがそうだったのではないか」と思えるような記憶もあり、しかし同時に「それを認めたくない」気持ちもあって、それが心身に拮抗状態をつくってしまうようでした。現在、職場や友人との人間関係も特に「問題がある」ことはないらしいのですが、しかし自然な関係ともいえず、どこかで「問題を起こさないように」無理をしている感覚もあるようで、自分によって自然な人との付き合い方がよくわからなくなるときがあるとのことでした。

タンク内での様子は静かでしたが、タンクから出てきたあとは彼女はずっと泣いていました。泣きながらも冷静で、言葉もはっきりしていました。封じ込んでいた自分の気持ちがすこし前に出てきたようです。

その後彼女は両親から離れて一人暮らしを始めました。表情も明るくなり、落ち着いているようです。

リピーターの傾向

タンクを利用されるクライアントの中で最も回数の多い人では、18回ほど入りに来ている方もいます。しかし特に定期的に、というわけではなく、不規則継続型という感じです。私自身も記憶にある限りで20回以上タンクに入っていますが、特に日を決めているわけではなく、基本的に入りたい気持ちになるときに使用する感じで、時間もばらばらです。タンク・セッションでは一応「1時間」としていますが、私の場合は10分、20分というときもあります。1時間以上連続して入った経験は今のところ在りません。(クライアントの中には3時間以上入っていた人もいます。)

固定と安定──この似て非なるもの──

タンクをうまく使ってくれているクライアントは、(当然でしょうが)自分の生活のリズムの中にうまくタンクの性質を取り入れている感じがします。同じ一人の人間でも、その人の持つ「リズム」は単一ではなく、どの部分をどの範囲でみるかによってはさまざまな起伏や規則性が認められると思います。とはいえ一人の人間のパターンがそれほどころころ変わるわけではありませんから、大まかな意味でその人に合った生活状況であれば、そのパターンが変わることもなく、安定した繰り返しになっていたとしても不思議ではありません。ちょうど、フラクタル幾何学で言われるような、一つのシダの葉っぱからそのシダそのものを縮小したような枝葉が芽を出し、それらは固体(部分)としては別のものであると同時に、どんな小さなものの中にも最初のシダと同じ基本構造を備えているように。

しかし、いつのまにか「安定」したくりかえしが呪縛された「固定」に変わっていることもあります。そのパターンが必要だからそういうサイクルになっていたものが、いつのまにか「それしかできない」ような状況になってしまったとき、その時点での表面的には破綻はないかもしれませんが、もはや自力で新陳代謝をする力に欠け、その状況が終わるのを待っているような状況に陥っていることがあるような気がします。人間がその生活を安定させるために「概念」と呼ばれる認識の仕方を多用しているわけですが、ときどきその概念の方が絶対化しすぎて、「もともとなぜそうなったんだっけ?」というようなところがわからなくなってしまうような気がします。そうしたことは「トラブル」という意味での「問題」と化したときに、その存在を認知されることが多いですが、実際はそういうときにだけ存在する問題ではありません。「不定期継続」というパターンで上手にタンクを使ってくれている人たちは、どちらかというと物事に対してそういう取り組み方をしてくれているような気がします。(基本的には「からだの使い方」との取り組みと同じかもしれません)どのみち、「自己」などという問題に困ったときだけ取り組んでも、たどり着けるところは高が知れています。ある種の問題意識をきっかけにするとはいえ、困ることに困るような状態ではなく、気楽に困りながら、向かい合っていけるとよいかなあ・・などと思うのです。