読み物の小部屋

表現講座「こころとからだをほぐすボディワーク」
リアルな体育――アレクサンダー・テクニックからの提言

『女子体育』5月号(2000年4月発行)掲載

根本的なところから考えてみよう。なぜ、今「こころとからだをほぐす」必要があるのか。「ほぐす」ことが必要とされている状況とは、いったいどのような状況なのか。
「からだとこころをほぐす」という言葉の響きは、柔らかで優しい。しかしその優しげなイメージだけでことを判断したり、そのイメージからイメージされた運動行為だけを「それ」だと思い込むのは危険なことだ。「ほぐす」ことが「善」、ほぐせばいい、というものではない。
「からだ」も「こころ」も「ほぐす」も、言葉としてはけして特殊な用語ではない。しかしだからこそブラックボックス化しやすいというか、わかっているようでいて何も理解していないということがありうるように思う。

「イメージの罠」

たとえば「きたえる」という言葉がある。「ほぐす」と「きたえる」はときに対義語的に扱われるが、はたしてどうなのだろうか。ただきたえればいい、というものではないことは理解されつつある(だから今「ほぐす」ことが提唱されているのだろう)が、「きたえる」ことが「悪」、というわけではない。
「ほぐす」にしろ「きたえる」にしろ、その人の身体能力や状況を向上させようとする前向きな働きかけ、という意味では共通している。その働きかけの度合いに応じて形容詞があてがわれているだけのことであって、その形容詞に実体があるわけではない。しかし「イメージの罠」というやつはなかなか巧妙で、「ほぐす」とか「きたえる」と称して一定の運動を行ない続けると、その行為自体が「ほぐす」とか「きたえる」ということなのだと「勘違い」してしまいやすいように思う。うっかりとこの「罠」にはまってしまうとやっかいだ。この「罠」にかかったまじめな人ほど、「ほぐす」やり方にも「きたえる」やり方にも、最終的に失望感しか感じとることができないだろう。
「ほぐす」も「きたえる」も、ひとつのものの見方、ただの言い回しにすぎないと私は思っている。大事なのは「どちらが正しいのか」というような方法論の絶対化あるいは方法の固定化ではなく、「今の自分にはどちらが必要なのか、何がしたいのか」を判断する判断力であり、それを培うことではあるまいか。

「リアリティ」としての「こころ」と「からだ」の関係

新教育指導要項にある「こころとからだのつながりを教育する場としての体育」というスタンスは、新鮮であると同時にこちらの方が本来の姿という気もする。ところで、この「こころとからだのつながり」とはなんなのだろうか。
少し具体的な言葉に言い換えるならば「認識と行動のつながり」と言えるのではないかと思う。「やろうと思うこと」あるいは「やっていると思っていること」と「実際にやっていること」との関係、とも言えるだろうか。その関係のとり方は、そのままその人の「リアリティ」と呼べるように思う。
「認識」と「行動」はそれぞれは同時進行だが、パラレルな関係ではなく、互いに影響を与えあう関係にあり、しかもいつも両者が一致するとは限らず、むしろかなり頻繁にずれる。多少ずれても大丈夫なくらいの、おおらかでたくましい関係でもあるわけだが、体育に限らず、体験的な学習行為、いわゆる「からだでおぼえる」「勘どころをつかむ」というようなことは、両者の結びつきによって安定化し「自分のもの」(その人の個性、才能、癖)になって定着していく。

「意識」というパラドックス

ところで、人間の知覚は、全体を見る事よりも、比較して生じた差異を読み取ることのほうがはるかに得意にできているようだ。今回「かぎかっこ」を多用して文章を書かせてもらっているが、記号を使って見慣れた言葉を「意識」的に異化することで、「これはキーワードですよ」とか「読み流さないでその意味を考えてね」というサインに使っているわけである。多分読者も知らず知らずのうち(「意識」せず)にそれを了解して読んで下さっているのではないだろうか。意識とは便利なものである。
ただ、そうした目につきやすい「違い」だけに目を奪われ、インパクトを知覚することだけが意識することだと思ってしまうと、ちょっとまずい。ことにそれが「こころ」と「からだ」の関係のこととなると、なおさらである。なぜなら、ここでいう「からだ」とは単に物理的な肉体ではなく自己の意識を含んだ身体であり、「こころ」もまた肉体を伴った自己の意識といえるからだ。

「からだ」の体験と「いたみ」

私のところで行なっている『使える解剖学講座』に参加してくれた人がこのようにコメントした事がある。「椎間板って、椎間板ヘルニアになるから使っちゃいけないのだと思っていました」と。「からだ」を意識したり、身体の部位の名称に接する機会というのが怪我や不調、苦痛や緊張といった「いたみ」という差異を介してということがいかに多いことか。
もちろん何の問題もなく動作しているときにも「からだ」は「ある」。しかし、そのとどこおりの「なさ」ゆえに、うまくいっているときほど「からだ」は「ない」ものになっているようなのだ。
前記の、「からだでおぼえる」は「体験的な学習体験」という意味で用いたが、この言い方は、「禁止」や「罰則」を知らしめるという意味合いでも用いられたりする。ここでは「からだ」を「いたみ」に置き換えても意味が通るほど、苦痛と「からだ」は、本来別物でありながら、同義語化している。
「いたみ」を介して自身の行為や「からだ」を感じ取ることを知らず知らずのうちに習慣にしてしまっているならば、その人が「いたみ」という知覚以外の手段で自分の「からだ」に出会う機会は一生ないのかもしれない。それはとても寂しいことではないだろうか。

「おこっている」ことと「みえている」こと

どのように認識しようが、結果としてできているうちはよし、とも言えるはものの、こうした「認識」と「行動」とその「意識化」のずれが慢性的な痛みや同じ部分を傷めてしまうような故障の原因である事は多い。私のところにレッスンに来る人のほとんどがそうである。しかもこのような「ずれ」から生じた故障は原因の特定がしにくく(本人にも「意識」できない「意識の死角」で起こっているのだから)本人や治療関係者を悩ませることが多い。
このあたりのことは昨年に出版した翻訳書『アレクサンダー・テクニークにできること』(誠信書房)の「訳者まえがき」の中に詳しく書いたので興味のある方は参照していただきたいのだが、かいつまんで書くと、例えばこのようなことだ。例えば竹ひごのようなしなやかな棒状のものを両手で持って曲げてみたとしよう。あるいは振り子のようなものを見せたとしよう。それぞれ「どこが曲がっているか」「どこが動いているか」と問うと、大抵の人が最も湾曲が大きい部分をさし、移動する振り子の重りの部分を指す。正解である。しかし、その湾曲を生み出している部分、振り子に動きを与えている部分が、湾曲している部分や空間的に移動をしている部分とは別の場所にあることに気が付いてくれる人は、意外に少ない。
身体運動にも同じことが言える。運動の展開が大きい部分を運動が起こっている部分と勘違いして、構造的に曲がらないところから曲げる努力をしていたために「自分には柔軟性がない」と思い込んでいたり、力を伝える方向を間違えていたために「自分には筋力がない」、ひいては「能力がない」と思い込んでいる(あるいはそのように判定される)例も少なくない。

どう思おうが、どうしようが、最終的にはその人の自由ではあるが、思い込んで決め込む前に、少し自分に「まった」をかけてもよいのではないか、と私は思う。イメージに惑わされず、インパクトにとらわれず、自分が何をしているのかをみてみてからでも、ことはけして遅くはないのではないだろうか、と。

おわりに

体育に限ったことではなく、学習とは、このような「行動」と「行動に対する認識」が組み合わさって、「何をしているのか」がわかる(本人にとってリアリティをもつ)ようになってはじめて再現性と発展性をもつ。出来ないことを出来るようになることだけが学習ではない。ましてや、出来ないと教師からおこられ、出来たからといってそれが自分の自信や発想力になるのではなく、おこられなかったことに胸をなで下ろすような時間の過ごし方が「教育」であるはずがない。しかし、生き生きとした自身の感覚を感覚することが体育という授業に課せられつつあるのだとすれば、それはすてきな課題であり、「机に向かってすること」と「体操服に着替えてすること」がばらばらなことではなく、学校の中のみならず、自分の人生とひとつにつながることでもあるのではないだろうか。

今回はアレクサンダー・テクニック(以下、ATと略す)の視点から体育を考えると、どう考えられるかを書かせていただいた。AT特有の用語はあえて使用せず、なるべく一般的に書いたつもりである。それゆえに具体例も少なくなった。その点はお詫び申し上げる。しかし本文が何かの参考になるようであれば幸いに思う。(了)