読み物の小部屋

楽しみについて

「パラディソ通信」(2001年1月発行)掲載

最近、石鹸を作り始めた。
石鹸くらい質も香りもよくてかわいいものがいくらでも市販されているし、わざわざ作ることもないのだが、でも作ってみたくなってしまったのだ。私が作った石鹸は、食用オリーブオイルを使ったもの。成分の変化を極力押さえるために過熱を避けるので、出来上がるまでに6週間以上かかる。先日その第一号がようやく使える状態になったので、いそいそと使ってみたのだが、なんというか、楽しかった。
石鹸を使って「楽しかった」という感想は変かもしれないが、この日常的なことがなんとも楽しいのだ。予想以上に石鹸の使い心地がよかったこともさることながら(このことについてもいろいろ書きたいのだが、今回は割愛)、石鹸でからだを洗う、という行為の内容が、新鮮に見出されてくることが楽しい。単に汚れを落とすためという以上の楽しみがそこにある。いや、本当はずっとそこにあったのかもしれない。しかしその「楽しみ」の存在をリアルに感じられることが、楽しい。何に対してだかよくわからないが、思わず感謝してしまう。

ところで、石鹸を使う場所でもあるお風呂、入浴は、私にとっては心地よいことだが、ある人にとってはめんどうなだけであったりする。私自身、子供の頃からずっとお風呂好きであったかというと、そうではなかったと思う。シャンプーするのが怖かったり、きちんと洗えだの、肩までつかれだの、言われてめんどくさいと思った記憶もある。いつの間にこれは私の「楽しみ」になったのだろう。

「楽しさ」「楽しみ」とは、なんなのだろう。

例えば「らく(楽)」という言葉がある。「便利さ」や「手間のかからなさ」という意味での「らく」もまた快である。「らく」なことはよいことだが、しかし、時に人の行為を単に「済ます」だけの「つまらない」ものに変質させていることもあるような気がする。この場合、「らく」であることの快は、それを「する」ことにあるのではなく、それが「終わる」ことにある。文字や音こそ同じであれ、「楽しむ」こととはかなり違う。
何かを「する」から、人は疲れるのではない。「楽しさ」と、消耗するエネルギーの量や疲労感の多少とは、実は関係がない。問題はその行為に自分がどのように関われるかなのだ。でなければスポーツやダンスが快楽になるわけがない。本当に人を疲れさせるのは、ただ「終わる」のを「待っているしかない」ことではないだろうか。だから人は何かをしたくなる。自分が「していること」と「している自分」を実感できることを、エネルギーを費やしてもしたくなる。それは疲れるかもしれないけれど、「楽しい」ことなのだ。

あまりにも日常的過ぎるがゆえに、自分と自分の行動との関係が変えがたく感じられるものに対して、与えられる言葉がある。「職業病」「癖」「性格」「体質」等。それもそうといえばそうなのだが、はたして、そうだろうか。そこに自分と行為との関係を問い直すことで見えてくるものがあるなら、私は嬉しく思う。(了)