えこひいき日記

2001年1月19日のえこひいき日記

2001.01.19

京都芸術センターという施設がある。廃校になった小学校を利用して作られた施設で、展覧会が行われたり、ワークショップがあったり、普段はアーティストのけいこ場所などに利用されている。冬場はちょい寒いが、レトロでなかなか素適だ。カフェも入っている。
今日はここで私のクライアントであり、友人であり、気になるアーティストでもあるダンサー、JさんとM嬢のリハーサルがあるのでお邪魔した。2月4日に横浜で行われるというコンペティションに出品する作品のリハーサルである。2年前にちょっと一緒に仕事をさせてもらった作品のリメイクということもあり、リハーサルに呼んでもらったのだが、そうでなくても彼らの作品を見せてもらうのは楽しい。若干のアドバイスなどする。
彼らの作品はほぼみんな観させてもらっていることになるのだが(彼らから言われて気がついた)、どの作品にも一貫して彼らの持ち味が出ていると同時に、作品ごとの微細だがこころに残る違いに惹きつけられる。今回は特に、リメイクということもあるせいか、ほぼ同じ振り付けのはずなのに2年前とのテイストの違い驚いた。そしてまたその違いが、とりもなおさず今の彼らを狙わずして反映しているものだということがわかって、なお驚く。当然といえば当然なのだが、こういうものはどうしようもなく「出てしまう」ものなんですねー。だからアートっておもしろいのですねー。
作品とは、根も葉もある「つくりごと」なのである。

私が思う彼らの魅力は、既成概念を心地よく裏切ってくれること。
彼らの作品には彼ら以外はほとんど登場せず、しかもほぼ出ずっぱり。美男美女のお二人が踊るとなると、見かけからは反射的に「デュエット」だとか「男女の物語」「恋人同士」を思い浮かべる人も少なくない。しかし彼らの描く2人の関係性はそれにとどまらない。舞台の上の彼らはほとんど目を合わせないし、まったく身体に触れないこともある。(最近、コンタクト・ダンスの手法を導入したが、それ以前は全くといっていいほど直接の接触はなかった)だからといって、「ばらばら」に「孤立」しているわけではなく、彼ら独特の呼応がそこにある。熱さとか、冷たさとかいうインパクトに頼らない体温の存在感。私はそれを美しいと思う。

昨年大阪で最新作が上演されたときのことだった。『トンネルを抜けた。家があった』と題された作品は、トンネルにまつわる思い出や記憶が作品の「核」になっていて、BGM的に、彼らがあらかじめインタビューしたいろんな人の「トンネルにまつわる思い出話」が流されたりしていた。終演後、立ち上がる観客は誰もいなかった。みんないっせいにアンケート用紙に向かってペンを走らせていたのだ。たぶん、作品を見て、観客もまた自分の「記憶のトンネル」に触れたのだと思う。それを書かずにいられなかったのだろう。なんだかすごい光景だった。

そんなふうに、彼らの作品は「鑑賞」するというよりも、観客の内面に音もなく浸透してくるところがある。ダンサー特有の姿かたちの美しさやダンス技術を「鑑賞」しに来た人にとっては、あるいは「ダンス」と自分の「人生」のあいだに結界を張っている人には、その不意の侵入が不快に感じられるかもしれない。
うふふ。

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