えこひいき日記
2001年1月27日のえこひいき日記
2001.01.27
『アレクサンダー・テクニークにできること』を出版してもうすぐ2ヶ月くらいになるのだが(原稿が出来上がって手元を離れてからだと、もう2年経っている)、今でも反響があって、驚くというか、ありがたいというか、びっくりする。治療関係の方が治療的観点、治療技術として興味を持ってくださる場合もあるが、その他のお手紙など下さる方のコメントにたいてい共通しているのは、「自分の動きの悪さや痛みやもう治らないような運命的なものに思っていて、それがずっと劣等感だったが、そうではないことがわかって救われた」というものといえるだろうか。治療関係の方(に限らないが)にも恐らく似たようなジレンマ、「自分の行っている治療方法は間違っていないのになぜ患者は治らないのか」あるいは「仕事をがんばればがんばるほど自分のからだが犠牲になっていくのはしょうがないことなのか」などの疑念がどこかにあるような気がする。そういう観点から興味を持ってもらえるのは、本当にとても嬉しい。
話しがちょっとずれるが、私は多分、もうこの先、翻訳はやらない。えーご、きらいなんだもん。「きらい」というのは正確な表現ではないが(あ、でもやっぱしきらいなんだけど)、んと、私の仕事のカテゴリー(からだの使い方を考える・教える)の中で、他人様が外国語(といっても、わたし、えーごしかわかんないんですが)、いや、「言語」の問題ではなく、異なる文化に立脚した状況認識という意味での「常識」に基づいて書かれたものを、私のつたない言語能力と、それを補うべく注ぎ込む時間と労力を費やしてまで、表現可能なものがどの程度あるのかと考えると、大いに疑問だからである。
『アレクサンダー・テクニークにできること』を翻訳していての最大のジレンマは、「言語を訳すこと」と「意味を訳すこと」のバランスのとり方だった。4年間ニューヨークの学校で関わったことがある著者が恐らく言いたいと思うことを、ナチュラルな日本語にしようとすると、完全な「意訳」になってしまい、オリジナルの本には一言も登場しない単語や表現を使うことになり、それは「翻訳者」としての権限を越える作業になりかねない。「言語的に」正確であることも翻訳という仕事においては重要である。しかし「言語的にだけ」正確な訳など何の役にも立たない。特に、「からだの使い方」という、いわば身体観や身体文化の違いを、いわゆる国レベルはおろか、個人個人のレベルで理解していなければ仕事にならないフィールドでは、言語的に正確な「だけ」ではどうしようもないのだ。この点に関しては、吐き気が止まらなくなるほど悩んだし、そもそも「直訳にとどまらない」伝え方を考えたくて、ニューヨークまで留学したのだから、私としては当然のポイントではあったのだが。
だからこそ、「それでも」誰かに何かが伝わったのなら、誰かの何かのきっかけになりえたのだとしたら、本当に嬉しいと思うのだ。
出版もそうだが、去年ちょこっとテレビに出たときも、反響が意外に大きくて驚いた。私はメディアに懐疑的なところがあるので(最初に私のことが新聞記事になったときに、私が言ってもいないことを派手に書かれて、しかも発行前に原稿を見せるという約束を破られて、非常に迷惑したことがあるので)、テレビも一体どんな放送になるやら、と正直、気が気ではなかった。
しかし結果として嬉しかったのは、小学生、中学生、高校生といった年代のバレエやスポーツをやっている人たちが「自分ができないのは、才能の問題や、がんばりが足りないのではなく、自分でもみえていない自分の行為や、からだの使い方にヒントがあるのではないか」とレッスンにきてくれたことである。こうした年代の人たちとは、出版というメディア・リリースだけでは出会えなかったかもしれない。
すでに何度も書いたことかもしれないが、「アレクサンダー・テクニックが正しいから、それに従えばよい」とか「アレクサンダーの先生の言うとおりにやっておけばいい」のではなくて、それはあくまでも参考で、自分の本当にやりたいことにどのように活かせるかを考えもらえることが、やはり私にとっては最高にわくわくすることなのだ。