えこひいき日記

2001年2月10日のえこひいき日記

2001.02.10

私の曽祖父は、風流というか、道楽人だったらしく、芝居小屋を持っていたらしい。私の母は小さい頃、曽祖父の膝でさまざまな芝居や歌や踊りを観て育ち、「歌・踊り・芝居を見て暮らす暮らし」を特別なこととは思わず育ったという。私は曽祖父に会ったことはない。だが、私もまた、割合小さな頃から踊りや歌舞伎や能を観る機会があったせいか、劇場に行くということが生活の上で特別なこととは思わないし、日本人でも歌舞伎や能を観たことがない、観ることにかまえてしまう、という人も少なくない中では、そのことにてらいはない。
そんなことを思うときに、会ったこともない曽祖父の息遣いを隣に感じるような気がしてしまう。会ったこともない曽祖父が、確かにこの世に生きていた人なのだと、突然、強く感じたりする。
それは環境や影響という名の遺伝なのかもしれない。
私が今こういう仕事をしていることも、偶然ではなく必然的なものなのかもしれない、などと思ったりする。

昨日の「日記」のなかでたまたま「認識コードの違い」という話しを書いたが、例えば「芸術」と呼ばれる表現活動は、けして有閑人のてなぐさみではなく、「生きている」ということの、別の表現であると思っている。生きているだけでも生きてはいけるけれど、生きているだけでは「生きている」ことすら忘れてしまったり、わからなくなったりするから、時に日々生きていることとは別の「コード」で「生きて」みたり、「生きている」ことを感じたり、現したりしなければ、日々生きていることすらままならない、そんなものではないかと思っている。つまるところ、言いたいことは「生きている」とか「愛している」とかいう、シンプルなことだったりするのだけれど、それを言葉として発音するだけでは伝わらない、表現にならないことがあるから、そのためのアート(技術)のひとつとして「芸術」はあるような気がする。

ただし、私自身は芸術至上主義者ではない。芸術のために死んでもいい、などということはぜーんぜん思わない。私にとって芸術は私が「生きて」いくための手段(アート)、「コード」にすぎない。(私、「○○にすぎない」って言い方をよくするけれど、それは「とるにたらない」とか「くだらない」という意味ではない。ただ、そのように「シンプル」かつある意味「本質的」、といいたいだけだ。私にとって、大切なことはいつも「それほど」のことであると同時に「それだけ」のことのような気がする。)「生きて」いくためにやったことが、結果として死であったならば、それはそれでいいんじゃないかと思うけれど。

たまたま私には、「芸ごと」「芸術」という表現形態がわかりやすいもので、この「アート(芸ごとという技術)でしか言えない」ことをあいしちゃっているのだ、と思う。けして他の「コード」が嫌いなわけではなく、これが好きなだけ。そのことに関しては、許されよ、と言うしかない。

ただ、何度も言うようだけれど、いくら好きでもその「ワン・コード」だけで一生を「生きて」いけるほど人生甘くも退屈でもないのですよねー。

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