えこひいき日記
2001年7月30日のえこひいき日記
2001.07.30
もう7月も終わろうとしている(はやいなあ)。8月がやってくる。
8月になると、お盆があり、終戦記念日があり、原爆投下の記念日がやってくる。私は8月になると否応なく「死」について考えてしまう。自らの身体は汗をかき、暑さに息をはずませ、太陽のまぶしさに目を細めている。その感覚が、自分の身は生きていることを私に伝えている。そうでありながら、同時に、ちょうど不意に蝉時雨が止むように、自分が生きていなくなる瞬間がやってくることを、妙にリアルに感じたりするのだ。
人は年齢的にいつぐらいから「死」を認識するようになるのだろうか。ある文献によると、4歳児の「死」の認識は「眠り」とそれほど区別はなく、悲壮感などはないという。
多分、そのくらいの年齢だったと思うが、私は小さい頃、時代劇の中に出てくるいわゆる「斬られ役」はみんな死刑囚だと思っていた。だから、「日本って、死刑の多い国なんだなあ」と思っていた。けれどあるときに、確かこの間死んだはずの役者さんがまた別の時代劇に出ているのを見て、「違うらしい」と察したのだった。
今の私から見てみれば、その頃の私は、時代劇の斬られ役だけを「死刑囚」と思い、刑事物などで撃たれる人のことはそうとは思っていなかった(多分)ことから、「死」というものをどこか遠い存在と思っていたのだろう。自分にも「死」がいずれ訪れるということも、よく理解できていなかったと思う。
その後、病弱だった私は、「「いつもの自分」でいられないほどの苦しさや痛み」を通して「死」の存在をとらえる機会を得た。死んだこともないくせに「死んだ方がまし」と思うような感覚が、「死」の側にではなく「生」の側にあること。つまり、「生」と「死」がスイッチの「オン」と「オフ」みたいな対義語的な存在、質的に隔絶的なものではなく、「生きていることの楽しさ」(おいしいものを食べてうれしかったり、お出かけをして楽しかったり、という)と基本的に同質のものが「苦しさ」(生きているからそれを感じる)に移行しうること、その矢印の向こうに「死」があるのではないかという「方向性」を見たのだ。
もちろんこんなことを言語化できるのは私がもっと後の年齢になってからで、当時の私はそれをどう言語化していいのかすらわからなかった。それでも当時(10歳くらい)の日記にこう書いている。「生が死のバリエーションなのか、死が生のバリエーションなのか」と。たぶん、覚えたての「バリエーション」という言葉に自分の思いを託すくらいしか、ボキャブラリーがなかったのだと思う。
それまで私が感じていた「死」は個人のものだったが、人の「死」が「ナショナリティー」(国、国籍、国の政策など)と結びつくことを知ったのは、「戦争」という言葉を通してだったと思う。
私は4歳のときにはじめて海外、ハワイに行った。英語を全くといっていいほど話さない祖父(しかし旧・ソビエトとアフリカと南極と北極以外はみんな出かけていったのではないかというくらいの旅行好きであった)と2人きりの旅だったのだが、自分で言うのもなんだが、このときのことは私のその後の人生に大きな影響を与えたと思う。
「ナショナリティー」という話に絞って言うと、その後の十数年、私は基本的に、国籍や国の違いが「個人」にどのような影響を与えるかに懐疑的だった。だって、日本にあるホテルも海外にあるホテルも、使用形式は同じだったし、言語がわからなくても意味がわからないとは限らない。私には個々人の違いはわかっても、学校の先生がよく口にしていた「日本人の特徴」とか「日本文化」というような異文化との「違い」が、今の生活の中のどこにあるのか、わからなかった。記憶にある限り、教師がそれについて明確な説明をしたことも聞いたことがなかったし。
けれどもそれと平行して、かすかな記憶がその底にちらついていたのも事実だった。それは4歳のときに見た、パンチボールの丘やパール・ハーバーに行ったときの米国人の「目つき」だった。その目は、私がワイキキやホテルの中を歩いているときに向けられるものとは明らかに違っていて、冷たい目だった。でも、私には彼らが私の何を見て、「目つき」が変わるのかがわからないでいた。
その答えは十数年後、北京郊外で出た。私は高校2年生になっていた。その旅行のときも、私は祖父と2人だった(考えてみれば、すごい偶然だな)。日本からの観光ツアーに参加しての中国旅行だったのだが、参加者中私が最年少で、他の参加者はなぜかほとんど戦争経験者だった。私の祖父も旧・満州(中国東北部)に兵隊としていたことがあった。
当時、外国人の旅行は現地人と厳しく分けられ、国家公務員であるツアーガイドが参加者に張り付いていた。そして戦争の話はご法度。今もそうだが、日本と中国の「戦後」感覚には温度差があり、不幸な過去を口にすることで現在の関係を不愉快なものにしたくないから、というガイドの説明を受けた。
そうは言っても、年配の日本人にとっては、今は懐かしい過去の思い出の地でもあったからだろう、ぽろぽろと思い出話がこぼれ、ご法度の単語もこぼれた。私は幾分、ひやひやした思いでその光景を見ていたのだが、そのときのガイドさんの目の中に、十数年前のハワイでの「目」に似たものを感じて緊張し、彼(ガイドさん)から目が離せなくなってしまった。ただ、彼の目は「冷たい」というより「かなしそう」だった。
ガイドさんは突如予定を変更し(これはとても異例なことだ)、バスは北京郊外に止まった。そして彼はこう言ったのだ。「みなさん、ここが盧溝橋です。ここから日本と中国の戦争がはじまったのです。」
私は「申し訳ない!」という気持ちが湧いてくるのを押さえることが出来なかった。でも、その「申し訳なさ」が、私の何から発し、何に対してのものなのか、戸惑った。個人として私が体験していない戦争、私が殺していない人たち、でも、私につながる、私と同じ国籍を持つ人たちが行った戦争。ガイドさんに対してもだけれども、私はガイドさんに対してだけ申し訳なかったわけではない。私、は、日本人、でもあるのだ、と、そのとき思った。
時間的に前後しちゃうのだが、私は小学校6年生のときに、「ある義務感」に駆られて太平洋戦争経験者の手記(全6巻)を読破した。吐き気や嫌悪感や、理解しがたさと戦いながら、まるで障害物競走のように読みぬけた。でも、読みたかったのだ。私には知りたいことがあった。でも、それが何なのか言語化できないでいたし、今も上手に出来るかどうか、自信がない。でも今なら少しは切り出すことが出来る。たぶん、私は、人は死ぬとき何者として死ぬのか、何者として生き、苦しむのか、知りたかったのだ。
「わたし」がなにものなのかは、「ここにいる今の私」だけで決められるものではない。私がなにもので、これからどうしていくのか、私にはまだわからない。私はどんな理由でどんな死に方をするのだろう。どんなでも、わたしらしかったら、いいな。
10歳か11歳くらいのときの日記に「私の考えというものはあるのだろうか、親や周りの影響でなく、私だけでものを考えることは可能なのだろうか」という内容のことが書いてあった。
過去の私の日記は、今の私への手紙のようなものかもしれない。過去の私への返信を書くとしたら、こんな感じだろうか。「私は、まだ、同じことについて考えています。その頃より、少しだけ、わかることもできたけれど、わからないことがわかったこともたくさん出来ました。でも、もう少し考えてみる。心細いときもありますが、それほど悪くはないです。うまくいくように、最後まで生きていけるように、祈っていてね。」