えこひいき日記
2001年9月8日のえこひいき日記
2001.09.08
大島弓子という漫画家がいらっしゃる。彼女の代表作『綿の国星』では、猫がお洋服を着て、二足歩行をし、人間には通じないが言葉をしゃべる、という姿で描かれている。
彼女の愛猫・サバちゃんも、彼女の漫画エッセイの中にその姿で登場していた。
当然のことながら、出版というメディアでは「著者の生きている時間」と「読者の生きている時間」にはギャップが生じやすい。著者が「新作!」として送り出した作品とて、本人にとっては過去の出来事であるし、読者が本を手にするタイミングによっては、著者にとっては大昔のことでも、(少なくとも読者にとっては)「今」のことになったりする。だから、サバちゃんの登場する漫画を読みながら(猫はみんなそうだが、年齢が顔に表れにくい。漫画の中でも子猫で亡くなったサバちゃんはずーっと同じ大人の顔なのだ)、「サバちゃんは今何歳で、今どうしているんだろう」と気にかかっていた。
猫は人間より早く天寿を全うしてしまう。サバちゃんも、もう何年も前に亡くなっていたことが最新作『グーグーだって猫である』の中でわかった。しかしそのことよりもある意味で「びっくり」だったのは、大島氏がサバちゃん以外の猫を「猫」の姿で描くようになったことであった。言葉で書く「このていど」のことだが、ビジュアル的に、画面の中で「人」の形をしていた猫が「猫」の形をしているんだから、驚く。思わず「うわっ、猫が猫のかたちしてる!」と叫んでしまった。
私は猫が好きである。猫という「種族」も好きなんだが、具体的には、私の「むすめたち」、ネリノとメフィーが好きなのである。彼女たちを通して猫を愛しているといってもよい。だから、同じ「猫」ではあるが、メフィーとネリノと、一般名詞であるところの猫、あるいは公園の猫やペットショップの猫、友人のおうちの猫とは「違う存在」である。優劣・上下の問題ではない。ただ「違う」のだ。
当然のことかもしれないが、「関係」とは個人的、個別なものである。だから、大島氏にとってサバちゃんとグーグーちゃん、タマちゃんやクロちゃんが「違う」存在であることはよくわかる。その違いの一つが「猫の姿」か「人の姿」かというところにも反映されているのだろう。ちょっとせつない。でもそれをきちんと描く態度には感心する。どちらもリアリティーとして「ただしい」のだから。
私にとってメフィーはメフィーの姿のままで、他の姿に転化し得ない。「唯一無二なるメフィー」なのである。メフィーが死んだら、私の中の「唯一無二」性は少し変わってしまうのだろうか。わからない。
しかし以前、中国料理の「よっぱらい海老」(生きた海老を老酒につけ、溺死したところを蒸して食す料理。ガラス器などに海老を入れてその姿を客に見せながら調理することが多い)を食べたときに、のたうつ海老を見るうちにそれが「酔っ払って川にはまり溺死した中年男性の顔」に見えてきて、すごーくきしょくわるい気持ちになりながら食べた(結局食べたんだけどさ)ことがあった。ぜんぜん海老の味がしなかった。(おじさんの味?もしなかったが)