えこひいき日記
2002年9月30日のえこひいき日記
2002.09.30
4日ほど前に吹き出物の診療で皮膚科にいってみた。もともと肌は強い方ではないので、さまざまな状況に応じて肌のコンディションが変化することは多いのだが、今回は長々と治りが悪く、かゆみや痛みもあったので念のため診ていただいたのだ。結果は「にきびですねえ」とのこと。特に最近になって化粧品を変えたこともないし、お通じも良いし、原因はわからないが、ともかく、症状&診断は「にきび」なのであった。消毒用のローションと塗り薬をいただいて帰ってきたのだが、おかげ様ですこしずつ確実に回復しているようだ。
治療中の注意(洗顔やメイクに関する)をいただいているときに、医師が「肌にあまり油分を与えず、乾かす感じで・・」と言われたのにすこしはっとした。ふと思ったのは、ひょっとして今回のにきびの一因は「保湿のし過ぎ」かもしれん、と思ったのだ。
私はつい2年ほど前まで、夏でも鼻の頭の皮がかさかさしてむけるような、どちらかというと乾燥しやすい肌であった。だから夏場でも保湿対策は欠かせないものだった。さらに冬場のお風呂上りなどはからだも痒くなり、なかなか難儀な日々であった。だから「油分を補い過ぎない」「乳液なども控えて、リキッドよりパウダーのファンデーションを」などというアドバイスは考えてみれば私が生まれて始めて聞くものだったのだ。
手前味噌ながら、自分でせっけんを作るようになり、卵の薄皮でつくった化粧水なんぞを使用するようになってから肌の荒れはずいぶん楽になった。鼻の頭は冬でもむけなくなったし、いつのまにか私の肌は以前より自分で思うよりずっと乾燥しにくくなっていたのだろう。そういえば、せっけんを使ってくださっているクライアントさんの中には「せっけん洗顔のあと、何もつけなくても良くなっちゃった」とおっしゃっていた人もいたな。それなのに私は夏でも保湿力の高い卵の化粧水を使い続けていたりしたので(卵の化粧水はこの冬あたりから使い始めた)、油分過多の状態になっていたのかもしれない。もちろんこれだけが原因と断定することは出来ないのだが、無関係とも思えないのであった。
んで、今は乾燥しやすい目や口の周りはいつもどおりの化粧水を使い、頬などには医師の処方した薬以外つけないで過ごしているのだが、それで頬や鼻がかさかさすることもないのだから、やはり私の肌の状況は以前と変化しているようにに思う。ありがたいことだ。やはり先入観は禁物。うーん、やはりちゃんと自分の変化は見ていってあげないとだめだな、と思った次第である。
ところで、顔ににきびが目立っていた時期、一部のクライアントさんからずいぶん心配していただいた。その気持は本当にありがたいのだが、でも心配されるのは、とてもうっとおしかった。「心配」の仕方として、そのような言動で心配されるのは、ちょっとしんどかったのだ。私にも具合が悪くなる権利くらいある。放っておいてくれ、と言いたい気持ちになってしまった。
とはいえ、無関心ではなく、見放すのでもなく「放っておいてあげる」というのはとても難しいことだ。だからそれを他人に期待したり、要求したりするつもりはないけれど、でもそうしてくれた人もいて、それは本当に嬉しかった。だから、改めて、そういう言動って結構気になるし、自分の身に起こっている症状以上にしんどいものだな、と思ったりした。クライアントさんの中には「(そのような言動に)傷つく」という表現をする人もいるが、その気持ちもわかる。私個人は「傷つけられた」とまでは思わないが、へこたれはする。いい気分ではないし、そのことが自分が置かれている状況や症状を味わう時間を邪魔しているように思う。
「症状を味わう」なんてへんな表現かもしれないが、しかしそれを妙に省いてしまうと、かえってどうしていいのかわからなくなることは多いような気がする。クライアントさんの習慣性の症状を日々見ていて思うことは、「変化」というものを「悪いこと」としか思えなくて、症状をおさめることだけにやっきになっている人に限って、症状そのものよりも、その「やっき」な行動が「回復」という「変化」を妨げている要素が意外に高いことだ。落ち着いて状況を把握すればさほどパニックにならなくても良いことは多い。
過度に心配をしてくれるクライアントさんたちは、一様に自分自身も親や周囲から「大丈夫?大丈夫?」とかまわれすぎることを「おりがた・うっとおしい」と言っている人たちであった。受ける分には「うっとおしい」と思っていても、「心配の仕方」としてそのような行動しか体験していないと、それ以外のことがにわかには再現できないのだと思う。少なくとも今は。そういう行動を「したい」と思っているわけではないのだと推測するのだが、他の方法をまだ獲得していないのだ。俗に「連鎖」と呼ばれる現象・・・例えば、「いじめられっ子」だった子供が別の場所では「いじめっ子」になったり、親から虐待を受けて育った子供が自分が親になったときに虐待をしてしまう、など・・・も、そのような体験的学習要素によって本人の行動になってしまっている部分が多い。自分の気持とマッチした「自分らしい行動」は、自動的に行えるものではない。学習によって獲得するものなのだ。だから、自分の気持に似合っていないと感じた自分の行動にはちゃんと疑問を持った方がいいと思う。別にそのまま済ませてしまえるものかもしれないけれど、そうである限りそのままでもあるから。
やってみたことのないことをするのは勇気がいる。なんでもないようなことだけれども、乾燥肌だった自分の肌に何も塗らずに放っておく、というのですら、私にとっては勇気がいることだった。やってみたことなかったんだもの。でも「肌は守るもの」というかたくなな態度および一つしかないと思っていた「打つ手」が今の自分の肌のコンディションに合わず、その現状を把握するために「にきび」という体験をするしかなかったのなら、welcome my skin trouble である。そういう方法でしか気づくチャンスがないのなら、それによって気がつかせてもらうほうがいいと思う。ほんと、なんでもないようなことだが、保湿をすることも、しないでいることも、できるようになったことを「自由だぁ」と思ったりするんである。人によって、あるいは状況によっては「どっちにすればいいの?!」という「迷い」に感じるかもしれないが、打つ手が複数自分にある、というのは、やはり「自由」だと思うのだ。
期間としては長くないし、症状としてもたいしたことはないけれど、でも今回の「にきび」にはいろんなことを思ってしまったな。「顔」にまつわるいろんなことがアタマの中を過ぎっていった。この話を書き出すと膨大に長くなるので、いつかまた今度にしよっと。
ところで、この夏は長く長く暑かったので、なかなかせっけん作りに着手できずにいたが、そろそろ作ってみようと思っている。自分用の在庫すらなくなっていたので、危ないところだった。そろそろ長風呂も楽しい季節になってきた。