えこひいき日記
2002年10月4日のえこひいき日記
2002.10.04
人はなぜ裸体を描きたくなるのだろう・・・などということを考えてしまった。古代から「ダビデ像」など、男性の裸身を描いた彫刻などがある。金子国義の絵の中にも裸体でしかも傷ついた青年が登場したりするし、絵のモデルになったと思われる男の子の写真も見たことがある。私はそれを美しいと思う。でも、描かれる裸体の美しさとは、いったい何なのだろうと、思ったりするのだ。筋肉はついているが、ボディビルダーのようなマキシマムさではない。性器の露出もあるが、それが表現したいわけでもないし、見る者の性的欲求をあおることをターゲットにしているわけでもない。裸体によってなにを描きたくなるのか、その美しさとは何の美しさなのか、目にしながらも言葉に出来ない自分がいる。
なんでこんなことを考えてしまったかというと、もう先月になるが、K氏の舞台を観にいったからだ。彼は私のクライアントのダンサーである。あ、念のために書いておくが、別に彼が舞台で裸で踊ったわけではない。ただそれに相当するような、剥き出しの何かを感じたからこういう書き方になっちゃうのかもしれない。
K氏の存在感は独特だ。
こんな比較の仕方は失礼かもしれないが、例えばJ&Mの存在感とはずいぶん違う。お二人の体つきは、ある意味で類似している。もう3年位前になるが、彼らの腕とか足とかを白黒写真に収めて舞台の一部に使ったことがあったのだが、写真に映った彼らの手足は、一瞬どちらが女性でどちらが男性のものかみわけがつかないような、トランス・セクシュアルな繊細さであった。全身がフレームに収まるとそうでもないのだが、それだけに写真を通してみる彼らのボディ・パーツの造形は印象的だった。繊細だが、弱いのではない。繊細な、強烈さ。もしも彫刻や白磁や青磁などの焼き物としてあの造形を作り出そうとするなら、どういうふうにつくったらいいのか、モデルになるものが思い当たらないのだが・・・そんな連想をしてしまうような、どこか動物的でもないような、きれいな手足のラインだった。
それに比べると、K氏のからだの線はしっかりと太く、男性のボディ・ラインである。人間の、男性の、からだだなあ、と思う。しかし「ごっつい」というのとは違うし、男性性を誇示しているわけでもない。むしろ、なんだか危ういようなもろさを潜ませていそうな「強さ」なのである。しかしそれはあくまでも、どーんと現れているのではなくて、隠れて現れているのだ。なにか、表面的に目に見えているものとは別の何かを顕わにしてしまうのが舞台という空間なのかもしれない、と、そんなことを思った。
そんなことをいいつつも、「存在感」とか「からだの線」というものはなにを目撃してそのように見なしているのか、自分でもよくわかっていないところがある。何かを目撃してそのように思っていることは確かなのだが、単品でそのようなものが存在しているのではないし、実に説明し難い。しかし説明し難いことをもってして、存在しないような扱いにすることも、また出来ないようなインパクトがあるので、さらにややこしい。
K氏の今回の舞台スケジュールは、大阪、東京、京都というものでかなりハード。しかも演目は同一ではなく2演目なので、たいへんだったと思う。ありがたくも招待券をいただき、大阪と京都の舞台を観にいった。それぞれ違う演目である。大阪での作品「trance」は、基本的にソロ。私の感想では「男の子版・不思議の国のアリス」にみえた。高度に身につけられたテクニックがときにお行儀良すぎる感じに映るところもあったが、それもまた魅力かもしれない。うってかわって京都での作品は「ためらいのワルツ」というデュエット。緊張感のあるダンス作品である。K氏のパートナーのNさんは、まるで女優さんのような存在感のある人で、なんでもないような立ち振る舞いなのだけれども、彼女の動作にはセリフよりも説得力がある。以前にも彼らのデュエット作品を一つ見せていただいていたのだが、さらにいい感じであった。
それにしても、クライアントとして彼らを観ているときと、舞台の上のダンサーとして作品を見せていただいているときでは、ぜんぜん違う「顔」が見えるのでおもしろい。当然といえば当然だが。以前にも書いたことだが、ひとさまから「先生」などと呼ばれる仕事をしちゃうと、「先生業務」以外の時間にもその肩書きというか、そこでの関係性がついて回って面白くないことがある。レッスンでは教師とクライアントという関係性で関わるが、舞台では彼らが主役。提供者。それを心置きなく楽しめる立場に身をおけることは、私にとってたいへん心地よいことである。
表現者として彼らがさらに自由に、彼ら独自の思いを形に出来る場に恵まれることを願ってやまない。