えこひいき日記
2003年2月5日のえこひいき日記
2003.02.05
久々にげっそりするような話を聞いてしまった。それは私のところに来ているクライアントが参加したヒーリング・セミナーの話なのだが、それは耳に優しげな「ヒーリング」という言葉でシュガーコートした「拷問」に他ならない行為であった。よくサスペンス・アクションものの拷問シーンなどで、拷問で気を失った人間に水を浴びせたりして正気づけて、また拷問を続けるというのがあるが、私が聞いた話はまさにそんな話だった。
「拷問」がまがいなりにもなぜ「ヒーリング」になりうるのかに、疑問をもたれる方もいるかも知れない。
しかしそのカラクリは意外と原始的なのだ。かつて「自己啓発セミナー」の講習の中に配慮が足りない以上に悪質なものがあり、その存在が社会問題化したことがあったが、そこで行われていたことと大して変わらない。簡単にいってしまえば、こういうことだ。本人にとって普段の生活パターンにないような行為を参加者に強い、その苦痛と緊張の後に、なにかやさしい言葉なり行為なりをセミナーのナビゲーターが参加者に与える。「拷問」のあとの行為は、たいていどんなものでもありがたく思えたりする。そこでもたらされる感覚の落差を「解放感」とか「芳しい変化」と参加者が勘違いし、それがいかにもセミナーによってもたらされたものであるかのように仕向けるのである。それはまるで低級のシナリオのように、ひたすら幻の「ハッピーエンド」を目指して突き進む予定調和であり、参加者もともかくかろうじて「ハッピーエンド」にたどり着けたことに安心して(あるいは疲れ果てて?)しまうのである。それは参加者だけでなくセミナーを行う側もそうで、「きもちよかったでしょ?ね?ね?」などと言って、とにかく参加者を「ハッピーにさせた」と無理やり確認することで、自分のまた救われるような気持ちになるのである。
私自身、「ワークショップ・アディクイト(ワークショップ中毒)」と呼ばれる人たちに何度も会ったことがある。彼らはワークショップに参加するたびに、こちらの話など本当には聞かずに、用意してきた「シナリオ」を演じる。適当な苦難と適当にそれをクリアすることを演じて、何かを得たような気分になって胸をなでおろしている人たちである。私のワークショップは、多分そういう人たちにとって居心地が悪いと思う。以前、あるワークショップに参加してきた男性は、その場を去りもしないが参加もしないで恨めしそうな目で遠巻きに会場内をうろうろしていた。私はあえて彼に何も言わなかった。何も言わずに相手を見つめることが私のメッセージだった。多分、相手は怖かったと思う。そういう形で自分の行為の「責任」を問われることがこれまでなかったようだから。
また、別のワークショップでは他人の「苦悩」が大好物という心理臨床家が参加してきて、ムシズが走ったことがあった。誰かがワークの中で自分の悩みをすこし話したりして、泣いたりしようものなら、露骨に嬉しそうな顔をしてその人のそばによっていき、慰めるふりをしてさらに泣かせようとしたりするのである。まさに「他人を食い物にする」という感じで、以前SFスリラー映画で見た「ブロブ」というゼリー状の地球外生命体を思い出してしまったほどだった。自分の問題を見つめずに、他人にかまけることで「なにかをしている」気になる大馬鹿者はどこの世界にもいるものなのだ。
昨年、30年前の赤軍派による「あさま山荘事件」が相次いで映画化され、話題となったが、赤軍派内で行われていたという「総括」という行為も、実は「セミナー」で行われていたことに似たものであったらしい(もちろん「総括」の方がフィジカルに相当暴力的だが)。この映画が公開されるに当たって、元・赤軍派であった人物がテレビのインタビューに答えていたのを何度か見たが、その中で最も印象的だったのがこの「総括」に関するコメントだった。「死ぬと思わなかった。ひどいことをしているという意識もなかった。やっているうちに、相手が死んでしまったのです」とその人物は言っていた。30年経ってもなお、この出来事に戸惑っているようだった。
彼らが「総括」と呼んでいた行為は、もともと彼らのリーダーだった男性の体験によるものだったという。この男性は、ある学生闘争の際にひどく殴られ、ほとんど死にそうになったことがあったのだという。そしてひどく殴られた後に、意識がクリアになる感覚を感じたことから「極限の痛みを与えることで人間はより高い次元にいけるのだ」ということを言い出したのだという。だから仲間を殴ったり、錐で刺したりすることは「相手を助けている」行為であると、本当に思っていたらしい。自分の挫折や失敗を認める勇気を持てずに、ひたすら正当化する感覚に溺れてしまうことの、愚かさや醜さはまったくげっそりするほどばかばかしい。ばかばかしくてくだらないが、そういうことはこの世の中に現にあって、そしてけっこうひどい結果を生み出してしまう。しかも「悪意」がないだけに救いがない。(悪意であれば救いがあるとも思わないが)
そのような信念がある異様な熱気で正当化されている閉鎖空間において、そこから逃れる方法はそれを「やめる」方向にではなく「もっともっと」という方向に選択されてしまうことが多い。アタマが冷静なときに考えると、それこそなぜそのようなことが出来るのか信じられない気持だろうが、でも多くの「からだの使い方」の根本的な誤りが「もっともっと」によってさらに悪化する(例えば、練習の内容を見直すのではなく量を増やすことで「うまくなろう」とすることでドツボにはまってしまうように)ことがあるように、程度の違いはあるものの、けしてそれは「特殊な狂気」ではない。問題視された「自己啓発セミナー」で行われていたこともそうであり、今回の「ヒーリング・セミナー」で行われていたこともそうである。8年前にオウム真理教が起こした事件にしても、彼らには「殺人」という行為の実感がなかった。「殺人」を「ポア」という言葉に置き換えることで、巧みにその事実から自分の意識から排除し、置き換えられた言葉にすがって自分を正当化したのだ。
例えば子育てにしても、教育にしても、医療や宗教にしても、やり方を間違えると本当にひどいことになってしまうことはある。しかしだからといって子育てをしない、教育もだめなもの、と決め付けるのもどうかと思う。自分自身も人の話を聞き、指導を行うことをしているだけに、クライアントの「ヒーリングという名の拷問」の話は胸が痛い。自分がそういう間違いを犯さないということも、絶対無いとはいえないと思う。ではどうすればいいのか。
私なりの考えだけれども、それは私自身が「教える」という立場にあぐらをかかずに、自分自身に興味を持ち続けることかな、思う。自分という人間をある役割に固定してしか認識できなくなったときに、その認識を失ったときに訪れるだろう「アイデンティティ・クライシス」を恐れる守りの姿勢が、かえって自分を窒息させていくような気がする。自分自身の感じていることや、思っていること、明確に仕切れずにいることから目をそむけずに、感じたり思ったり考えたりしていくことでしか、私は「責任」が取れないような気がするのだ。