えこひいき日記

2003年5月7日のえこひいき日記

2003.05.07

このゴールデンウィークは頑張って働いたので、自分の欲望を一つ、叶えてあげることにした。私の欲望の対象、それは古伊万里の茶碗である。18世紀(江戸時代)のものというふれこみの茶碗で、つややかな白地に青で模様替えが描かれている。実は去年の暮れあたりからずっと気になっていた品だったのである。
ことさらに骨董品を収集する趣味はないつもりだが、ほんのときどき、どうしても欲しいと思うようなものに出くわしてしまう。そしてそういうものは、納得のいく「手に入れられない理由」がない限り、手に入れないと後悔するものである。以前、ニューヨークの蚤の市で「豚の木馬」(形容矛盾のようだが、ふつう馬の形をしているはずの木馬が「豚」なの)を見たときに「欲しいなあ」と思ったのだが、何となく躊躇してしまって手に入れそびれた。数時間後にその蚤の市に行ったとき、それはもう見当たらなかった。今でもどうして手に入れておかなかったのかと思う。「何となくの躊躇」でもそれが立派に「入手に踏み切らない理由」になる場合もあるが、このときのは単なる「遠慮」だったのだ。急がしそうで、かつぶっきらぼうに見えた店の人への「遠慮」、いわゆるアンティークを買ったことのない自分自身への「遠慮」。こういうチャンスの女神の前髪を掴みきれなかった悔しさは、抜け切れないしみのように記憶に巣食う。それは物理的には「もの(物品)」を手に入れ損ねたということなのだが、そういう結果に至ったのは自分の気持ちを捕まえ損ねたゆえである。自分が「思っていること」は瞬時に捕まえなくてはならない。それ以外のタイミングではキャッチできないのが「自分の欲望」だという気がする。
私が気になる古伊万里の茶碗をずっと気にしながら購入しなかった理由はただ一つ、経済的な理由である。骨董品に「相場」というものがあるのかどうかは知らないが、私が気にし続けた茶碗はべらぼうに高いわけではない。新品の現代物でこれより高い茶碗はいくらでもあるだろう。ともあれ、私にとってはこの個人的なレベルでの「経済的」な理由が「手に入れることを諦める」決定打にはならなかったので、この条件が外れる機会を虎視眈々と狙っていたわけである。あとは、それまでにこの茶碗が誰か他の持ち主を得て目の前から去ってしまわないことをただ願うしかなかった。
改めてみるその茶碗は、やはり何となく愛らしくてよい感じなのだった。一緒に居たパートナーにも見てもらったのだが、やはり「よい」と言った。今の私にとっては安くない買いものではあったが、もう迷う要素はない。購入を決めた。
「江戸時代のものですけれどね、モダンで、珍しい柄でしょ」と店の人。それを聞いて「ああ、確かにそうかも」と思ったが、そういう理由で購入したのでもないので「ほうほう」とただうなずくばかりだった。「カフェオレボウルに使う人もいます」と店の人は言ったが、私にはぴんとこず、どうやら店の人も今ひとつ乗り気なアイデアではないらしい。「それにしては大きいかなあ。お茶を立てるにしても、ちょっと大きめだし、小丼とか、そういう使い方かしら」と言ってみると、店の人も「何がいいですかねー」などとのりのりで聞いてきた。店の人の「一押し」は「鮭茶漬け」だった。たしかにつややかな白地と、青の模様に鮭の赤い色は映えるかもしれない。
結局私が最初にその茶碗を何に使ったかというと、「明太子茶漬け」だった。使い染めのせめてものはなむけとして、ちゃんと刻み海苔も添えた。少し高めの糸尻も、なんだか手になじむ。いい感じかもしれない。
次は何を食べようか、などと空になった茶碗を見ながら思うのであった。

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