えこひいき日記
2003年8月17日のえこひいき日記
2003.08.17
昨晩何とか「誠信プレビュー」の原稿を書き終える。まだ最終的な詰めをしていないのだが、とりあえず編集者に送信。現在はその返答待ちの状態である。文章の長さとしては長くないものなのだが、思いのほかてこずってしまった。この3日間ほとんど毎日午前3時までパソコンの前でうなる時間が続いた。ほんとに、自分の文章力のなさを改めて思う日々だった。草稿の段階で読んでくれた人は「言語化しにくいことを書こうとしているのだから、無理もない」と言ってくれたが、それとて言語化して提示できなければ読者には伝わらないのである。最低レベルのことが書けているだろうか。最低ラインの要求に応えられているだろうか。まだ不安である。
15日から本日までの3日間はスタジオでのレッスンはお休み。久々にあちこちに出かける日が続いた。
面白かったのは、高松塚古墳や飛鳥寺に行ってみたこと。いずれも行ったのは初めてだった。高松塚古墳は女官の壁画が有名なのであるが、たまたま実家にその女官図を写した屏風があり、子供の頃からその絵は見ていた。実際に古墳を訪れてみて、屏風絵は相当な拡大であったことがわかったのだが、そういった発見もさておき、印象的だったのは南壁面意外に残っていた玄武(北)青龍(東)白虎(日)の四神図と天井の星宿である。実は高松塚に行く前にキトラ古墳にも行ってみたのだが(長雨で土嚢が崩れたということで、近くに行くこともできなかったのだが)そこにも四神と星宿の図は描かれているらしい。「東西南北」だけでなく「天地」も含めて「六方」を意識する空間認識の仕方というのは、ともすれば平面だけで満足しがちな現代人の日常の中では鮮烈で面白い。とはいえカーナビなどを使う現代人とても星(衛星)を見て己の位置を知るのだから、基本的に感覚は同じなのかもしれない。世界の中に自分の居場所が在って、それを自分が知っているということは、古代から現在まで人間にとって重要な観念なのであろう。
飛鳥寺の大仏も、なかなか面白かった。ほんのり正面を向かって左にもつこの大仏は、とても味のある表情をなさっている。それにならのお寺と京都のお寺では随分風情が違う。天の香具山、畝傍山、耳成山などのなだらかな山を見ながらする寺めぐりは、京都のお寺めぐりとはまた違った気分になる。
京都でも、二条や寺町界隈にある骨董屋を覗いて歩く時間があった。ゆっくりと、この界隈を歩きとおしたことは、少なくとも最近の記憶にはなかった。こうして書き連ねると、何か古いものばかり訪ねて歩いているようだが、私個人の意識の中ではそれが「ふるいもの」、つまり「過去のもの」であるという意識はない。私にとっては今出遭ったものであり、今の私に必要なものである。骨董も、基本的に飾るだけの物は買わない主義である。お皿も李朝家具もみんな日常的に使っている。それは骨董に限ったことではないし、多分、主観的な語感の問題だとは思うのだが私には「飾り」という感覚が掴み難いのである。自分にとって必要なもの、意味や思いのあるものが集合してくる、という意味で棚に人形やガラス細工が「並ぶ」ということはあるのだが、空間を埋めるために物を購入する、という行動形式がないのである。だからすごくいいなーと思っても、値打ちものだよあ、お買い得だよな、と思うものがあっても明確な使い道やそれの居場所(置き場所)がないものは基本的に購入しない。だから散々歩き回ってもなーんも購入しなかったりするのだが(お店の方には悪いが)、私は楽しいのであった。