えこひいき日記

2003年8月24日のえこひいき日記

2003.08.24

先日の原稿書きの後遺症(?)なのか、このところ、意味もなく午前3時くらいまで何やかやとしている日が続いている。たいてい長風呂をしたり、本を読み返したり、深夜のテレビ番組を見てボケーっとしている感じ。私は寝不足に弱く、たまに出張で遅寝早起きなどしなくてはいけないときなど、その翌日は一日中吐き気と戦いながら仕事をしなければならないことがしばしばあるのだが、今のところ機嫌よく仕事をしている。さすがにちょっと目が乾く感じはしますけれども。

ときどき始めてレッスンにきた人から「意外と(レッスンで指示・指導されることは)まともなことばかりですね」と言われることがある。今日もたまたまそういうことがあった。
私はこれを逆説的に面白い言葉だなあ、と思って聞く。なぜなら彼ないし彼女は今日はじめて触れたレッスンの内容を「まとも」と感じていながらも、それはこれまでの自分の動作パターンや自分の日常的な身体認識からはずれた、「特異な」まともさであることをも言っているからである。「こっち(レッスンで指摘・指導されたこと)のほうが合理的で、納得がいく」と感じつつも、それを言われることを「意外」とも感じている。それは「自分のこれまで」のことが「自分にとっては普通と思っていたが、まともではなかった」という「意外」さである以上に、それまでその人にとって「何かを変えること」とは、いわば「身体の異化」行為、「日常性からはなれたところで特殊な行為を行わなければ改善されない」という思いこんでいたことの現われでもあるのだろう。確かに、いかにも「これがレッスンですよ」と派手にマーキングできそうな、なにかちょっと変わったこと(特殊な体操をさせるとか?何か特殊な器具を使うとか?)をやった方が「やったような気持ち」に簡単になれる。(とっかえひっかえ通販等でさまざまな健康器具が売れ続けるのは、このためだろう。物体の中に効果の具体性を見出そうとがんばってしまったり、物品を買うことで安心感を買う要素もあるからだろう。もちろん、使いようによっては本当に「使える」ものもあるとは思うが、多くは、残念ながらそうたくさんでもなさそうなんですね)しかしそれは真に物事を習得するというのとは、似て異なる行為なのだ。
私は著作の中で「認識の中で姿を消したまま存在している「ふつう」」という言葉を使った。この「ふつう」は「日常」や「あたりまえ」と言い換えてもらってもよい。「ふつう」や「日常」という言語は恐らくどなたも理解ができるだろうが、その実体が実感としてない、というのは、それほど特異なことではないかもしれない。しかし度合いとしてそれがあまりにも極端だと、やはり息苦しい(生き苦しい)だろうと思う。
自分が今どのような状態に身を置いているかは、それからちょっぴりずれてみない・・・つまり、いったん「異化」してみないと認識しづらいものである。その「ちょっぴり」がレッスンでは大事である。大きくずらす(変える)ことは、それ自体は難しいことではない。しかしそれをしてしまうと、かえって「自分」を見失ってしまうことがある。「大きく変わった」というインパクトに「何が変わったのか」が覆い隠されてしまうからだ。「インパクトの大きさ」を「大きな効果」のように考えてぱっと騒ぎたくなるのも人情だが、それではレッスンはただのイベントに過ぎなくなる。残念ながらそれはレッスンの役割ではない。「何が変わったのか」「以前はどうだったのか」をきちんと認識してこそ、自分の持つアビリティを理解することができる。「自分にはこれができない」という認識の方が自分の中で目立つことではあるが、それを克服することだけが上達の方法だと思い込むのは、ちょっともったいない。「自分にできること」を認め、さらに洗練していくという上達法も併せ持たなければ、本当に「自分のやり方」を確立していくには芸が不足していると言わざるを得ないだろう。
ともあれ、意外と自分の「ふつう」って自分で走らないものだから、それを志って、何となく面白く寝れば嬉しいなあ、と思っている次第である。

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