えこひいき日記
2003年8月26日のえこひいき日記
2003.08.26
珍しく弟からメールがやって来た。「ターザンという雑誌にアレクサンダー・テクニックのことがちょっと書いてあるよ」とあった。弟は時たまこのような情報を告知してくれる。それで、ためしに買ってみた。まあ、大間違いではないが、私としては正確さに欠けるな・・・という説明が載っていた。まあ、仕方ないのだ。よくあることだ。むしろ、正確でない度合いがこの程度であることはラッキーかも知れない。
(ちなみに何所がちょっと不正確かと言うと、「頭が風船のように軽くなる・・」というような曖昧な「イメージ」は、実際のレッスンではほとんど登場しない。まともなアレクサンダー教師なら、恐らく具体的な指示やアドバイスを出してそれを補足するものとして「イメージ」を添えるのではないかと思う。曖昧なイメージを安易に用いることは、早急に変化を促すことには貢献できても、正確に自分の身体を認識する力を培う上ではリスキーである。多分、正式な資格をもたない人から間接的に説明を受けたか、執筆者の中でそのように受け止められたことを書いたのであろう。)
ともあれ広義では、こういうふうに必要な人に知ってもらえるかもしれない機会が増えるのは喜ばしいことだろう。
夜、久々に実家で夕食を取っていたら、たまたま父親とゴルフのことが話題になった。ちょうどテレビで「世界陸上」をやっていたこから、選手のフォームの話になり、私のところにレッスンにきているゴルフ選手のフォームの話に話が流れてしまったのだ。言ってしまってから「やばいな」と思った。父はゴルフが好きで、結構優秀な成績を収め、以前アルバトロスも出したこともあり、そのことはご自慢なのである。確かに彼はうまいし、それに関して私も異存はない。しかしだからこそ、そういう場合のあらゆる「それに関する他者の意見もしくはアドバイス」は時に本人にとっては「水をさす行為」「闖入者」に思えることがある。この場合もそうだった。特に「闖入者」がプロのスキルを持った娘となれば、さらにいらいらするのかもしれない。案の定、すこしお酒も入った父は自分のフォームをチェックしろと言い出した。言語的には「チェックしろ」なのだが、実のところ「かつてアルバトロスを出した私のフォームに非などあるまい。どうだ。どうだ。えっ!?」ということが言いたいのである。フォームのことについても興味はあるのだろうが、それ以上に娘の、あるいはプロの、いずれにしろ他者の介入や意見など求めていないのだ。彼にはけして悪気はない。私だって彼の神経を逆なでする意図などない。だからややこしい。せめて「お前からのアドバイスなどいらない」「認めて、かまうな」と思っている自分のことを自認してくれるとありがたいのだが、酔ってるし、ゴルフのことは好きだからこそよろず気になり、放っておけなくなるから、こんなふうになっちゃう。もうしょうがないので「はいはい」と流しながら、父のフォームについては何も言わずに、とにかく逃げた。なにもしない、ということが私の立場から出来た、せめてものことである。
ああ、ややこしい。
まあ、自分のところの話に留まらず、ときどき「家族」ってややこしくなるのである。家族だから何かしてあげたい。なんでもしてあげたい。わかってほしい。その気持ちになんら間違ったところはないのだが、しかし本当はできることなんて「四六時中」「何でもかんでも」ではなくて限られているし、それなりのコミュニケーションをとらなくちゃ理解なんて成立しない。そんなの「あたりまえ」である。でも「家族関係」のかなではその「あたりまえ」のことがワープしてしまい、通じないもどかしさに苦しさだけがつのることがある。「家族」に限らず、いわゆる「ファミリー(グループ)」なお付き合いのある、親しい人に対してもそうかもしれない。語るべき言葉や、気付くべき気持ちに「家族」であるほど疎くなることがある。もちろん疎んじようとしてそうなるわけではない。「信頼」というやつが、実は無関心に近いくらいプロセスを省いてしまう状況を生み出すことがあるだけのことだ。
私のところには、家族の介護をしている人や、子供が身体障害者という親御さんもレッスンにいらしているが、時に相手への気遣いがかえってディスコミュニケーションを生み出してしまい、知らないうちにとんでもないくらいのフラストレーションを溜め込んでいるということがある。あるいは、家族関係と仕事上の人間関係が重なっていて、「親密」であることが息苦しくて仕方ない、変化を許容できないような状態になってしまっているという人もいる。そんなでなくてもやっぱり「家族」って難しいと思う。
私とて、自分にその意図がなく、相手もそのようなつもりではなくても、自分の持つ仕事の技術やあるいは私の存在そのものが、私が大切に思う人間を傷つけることがある、ということを認めるのはリアルに痛い。たかがこんなことだけれども、それでもそれなりにへこむ。でも私は「へこむ自分」を「たかがこれくらいのことだから」と無視したくはない。大げさな言い方かもしれないが、これを無視すると多分、もっと問題が大きくなってからしか気がつけないと思うからだ。多分、そういうときにはすっごい気合を入れないと親しい人に向かい合えなくなってしまう。親しい人を敵に回してしまう。きわまれば、多分自分の存在を消したくなるだろう。解決とか理解とかじゃなくて、ただ自分の存在を(あるいは相手の存在を)嫌悪するようになるだろと思うのだ。だから「へこんだ」分だけ、へこんで、その都度ちょっと泣いちゃえ(嘘。泣いてないけどさ)と思うのである。