えこひいき日記

2003年9月18日のえこひいき日記

2003.09.18

身体的な痛みや困難感の中にあると忘れがちなことだが、アレクサンダー・テクニックなんぞというものを通して「からだの使い方」を学ぶことの意義は、「二度と痛まない(傷まない)身体を維持する」ことにあるのではなく「仮に傷めた(痛めた)際にも、自分がどういう状況にあり、どういう使い方をすることがその状況下において最適なのかを判断できる」ということである。その痛め方が一過性のものではなく、既にパターン化、習慣化したものであればなおさらである。
長く一人の人を教えていると、それなりにいろんな出来事が訪れる。レッスンをはじめて初期の頃は、問題意識を持っていた身体部位や思考の傾向が改善される感覚が著しいことが多いが、なにも「右肩上がり」だけが改善の方向性ではない。レッスン開始以前もその後も変わりなく、自分自身が一つのこと(例えばある仕事や、職業や、ダンスや、楽器演奏など)を続けているのであれば・・・あるいは自分が自分自身である限り・・・「いいこと」ばかりが平坦に続くわけではない。レッスンで「よくなった」と思ったところに再び痛みを感じたり「またやりにくくなった」と感じたりすることは、だれしも一度は経験することかと思う。しかしよくその「感じ」を探ってみれば、以前よりより早くかつ軽い段階で状況に気がついていたりすることが多い。また、これまでは自分ではどうしようもないと思っていた状況に対して、自分から動くことができる状況に変化していることも少なくない。同じような痛みや状況に「またかよ」というがっかり感を否めないのは人情だが、実は同じではないことに気がつくことができたクライアントは強い。し、そういうのって嬉しい。
私が「からだの使い方」などというものを教えているのは、からだやこころの状態を絶対化するためではなく、「癖」や「習慣」を敵にまわして叩きのめすためでもない。困難感の中に合っても最低限自分を見失わない、「自分のやり方」を見つけてもらうためである。冷静になればなんでもないことも多いのだけれども、その冷静さを「最低限」確保することが難しいことが多い。それが可能になるかならないかは、その困難感に接するときまでの自分のありようで決まる。つまり、習慣性の問題というのは、次に困難感や痛みを感じたときに自分がどのようにできるかによって自分がその習慣に飲み込まれている身なのか、自分がその習慣を有している身なのか、分かれてしまうような気がする。

「からだの使い方」などというものを教えていて最もかなしいのは、そのクライアントが「ファシスト」であった場合である。「かなしい」というより、単に「つまらない」と言ったほうが正確かもしれない。私の言う「ファシスト」とは、優劣でしか状況を見られない人間、それゆえに感覚できる情報は狭く、発展性も薄く、排他的で、常に不安にだけ反応しているような人のことである。そのような人たちも誰かに強要されたわけではなく(時に「自分の知らないこと、理解できないことがこの世に存在していることが怖い」「誰々さんが知っていることを自分が知らないのは悔しい」という思いから全く主体的に望んでいないのにレッスンにやってくる人もいるが)、自分でも自分の持つ傾向性が苦しくてレッスンに来るわけなので、発展性はなくとも、少しでも苦しい状況が和らぐような、自分自身を優劣の価値判断で追い詰めすぎないような方向へ転換できる手助けができればよいかと思う。そういう人たちに急に自主性や創造性を求めても現実的ではない。そうでなくても理想ややる気が「強迫」や「不安」に化けやすく、そのせいでできる身動きもできなくなってしまうことが多い人たちなのだから、現実にステイしてできることを確実に考える方が、理想に気持ちだけワープするよりも、思い描く未来に近い道程なのである。

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