えこひいき日記

てれぱしぃ

2004.08.18

もはや8月も半ばを過ぎ、明日からはお盆休みも明けて仕事が始まる。今回はちょっと長めにお盆休みを頂いたのだが、正直に言って休み足りない気分である。でも休暇中楽しいこともあったし、明日からは明日からでがんばろー。

ところで京都にはたくさんの飲食店がある。自分ひとりで外食することはほとんどない私だが、気の合う人や家族とは食事に出るし、どの店で何を食べるかを考えるのは、やはり楽しい。その中にはお気に入りの店もあるが、対して「二度と行かない」と心に決めている店もある。先日「二度と行かない店」が3店になり、個人的にへこんだ。
私が「二度と行かない」と決めている店の1件目は某とんかつ屋さんである。味はおいしいのだが、店長が変わってからサービスが最悪になった。変に早く注文をとりにくるくせに、目端が利かず、店員は無駄にぶらぶらしているくせに動作はばたばたしている。内装も悪くなかったし、値段もそこそこでおいしいので一時は友人を連れて行ったりもしていたが、それ以来行かなくなった。地理的条件の問題で店の前を通ることは今でもあるのだが、以前は行列が出来ていたその店から最近では行列が消えたようだ。
2件目は某川床料理の店である。京都では夏になると鴨川に沿った繁華街の飲食店が川に向かって張り出したテラスを作って、そこで客をもてなす。そのテラスのことを「床」と呼んでいるのだが、夕方になると風も通るので夏場でも意外と涼しいので人気がある。いい店は予約するのが「常識」なので、その手順を踏まなかった私も悪いのだが、飛び込みである店に友人と入ったところ、そこは料理が最悪だった。その割に値段は高い。もしも観光客の方々がここに来て「こんなもんが京都の料理屋のグレードか」などと思うようなことがあったら、残念でならない。値段はほとんど「席料」のようなものと割り切り自分自身を説得するとしても、客の食べるペースを考えずにどんどん料理を持ってこようとしたりする(恐らくそうやって回転を早くしてたくさん客を呼び込みたいのだろう)接客マニュアルにも配慮が欠けている。デザートに「わらび餅」が出たのだが、それは絶句もののまずさだった。第一わらび餅ですらない代物だった(あれは一体、何で作られた、なんだったのだろう?)。「まともな料理を食べていないと、その国の食文化は壊れる」と言っていた料理研究かがいたが、まじめにそれを心配したくなる店だった。みてくれが本格派風なだけに、始末が悪い。
3件目に加わってしまったのは、某エスニック料理屋である。この店は開店当初から知っているのだが、最近徐々に客が入るようになってから目に見えて接客が悪くなった。恐らく、急にお客が増えるようになった状況に対応するのにいっぱいいっぱいで、店員教育が行き届かず、店主も「店のポリシー」などというものを考える暇がなかったのだろう。その点は同情するにしても、「常識」的に考えて、皿の置き方や、料理のサーブの仕方のぞんざいさにいいかげんあきれてしまった。店員が常連客の顔を覚えておらず、それに応じた対応もできていないというのも問題である(私の方が「あ、この方以前にもお見かけした人だ・・」などと覚えているほどなのに)。例えば常連に紋切り型に食べ方の説明を繰り返してしまうというのもどうかと思うし、常連の定着を見計らってメニューを変えたりコースを組みなおすなどの努力もない。味は悪くないのだが、以前から不安定なところがあって、同じ料理を注文しても日によって味が違うことが少なくない。

思うに、私はいわゆる「心遣い」のなさに弱い。飲食店に限らず、先日も某劇場に対して「行かない」宣言をしてしまったが、それもてんぱってしまうとあっという間にぼろを出す(忙しくてきっと派生する事態への大作をまじめに考えていないんですね)部分を改善せずに同じようなミスを度重り行うので、がっかりしてしまったからである。関係者は個人としてはいい人たちなのである。でもお仕事なのですから、いい人だけでは許されませんでしょ。その劇場ではなかなかよい作品も上演されるので、私としても痛いのだが、でもその不愉快さは私にとって一種のトラウマになってしまったので、それが消えるまで当分行かない。某企画事務所も、連絡とか確認とか、基本的な事務伝達が遅く、それを注意すると笑って誤魔化すか(悪気がないことを示したいらしい)、逃げるか、無駄に平謝りされるので、次回に改善がされなかったらもう関係を絶とうと思っている。
このように書き連ねてみるに、「気遣い」がない状態というのは、部分がよくても、フルではないというか、どこか全体運営できていない状況といえるのかもしれない。

しかし「心遣い」とはなんだろうか。これって、意外に難しいように思う。「心遣い」や「気遣い」とは相手に対する「要求」や「命令」ではないからだ。
「心遣い」とは手取り足取りかいがいしく世話を焼くことや、へりくだった態度を相手に「要求」しているわけではないと思うのだ。そういう態度なら形式的にはマニュアルでカバーされている。志の低い成金がお金でその態度を買うこともある。でもそれはあくまで「要求」である。それに言葉づかいがいかに丁寧でも、言葉どおりの気持ちがそこにはない態度にある種の不快感を感じる経験している人は少なくないのではないだろうか。いかに丁寧とはいえ、慇懃無礼な態度は「心遣い」とは程遠い。例えばコンビニで、まるでこちらを見ずに何もない空間に向かって言葉を吐きかけている(「しゃべる」という感じでもないからこういう表現になるが)ような態度から受ける心地から逆算すると、「気遣い」の基本は「存在の認知」なのかもしれない。そしてその「存在の認知」が、反射的な敵意や嫌悪に基づくものではなく(「他人」というだけでむだに怖がるのではなく。「他人」を反射的に排他する人って、たいてい「身内」にも信頼感がない人が多いけれどね)、嫌悪や好意に基づかなくても他者をきちんと尊重できたら・・・つまり、他者に対する基本的なリスペクトができたら、と思うのだが、それってハードルが高いかしら。例えば、狭い道で自動車同士がすれ違うことになったときにどのように道を譲るか(あるいは先に生かせてもらうか)や、扉のところなどで自分の後から来る人のためにドアを支えたりとか、そういう「判断」も「心遣い」のうちだと思うのだ。その場にふさわしい行為というのは、他者を傷つけることはない。「心遣い」とは他者に対する気持ちではなく、むしろ自己認識なのかもしれない。

「気遣い」とか「察する」って、「超能力」なんだろうか?・・・先日クライアントとそんな話になったことがある。そのクライアントが相手の「こころない(こちらの様子を見ていない、自分のペースだけの)」態度に対し、苦言を呈したところ「お前が何をおもっているかなんて、言ってくれないとわからない。テレパシーで要求してくるな」と言い返されたのだという。相手の言い方には「売り言葉に買い言葉」という要素もあるように思うので、言葉どおりのことを相手が本当に思っているものかも疑わしいが、しかし「なぜ相手がそういうふうにいってくるのか」を考えてみる態度(これを多分「察する」というのだろうが)に欠けていることは確かかもしれない。「テレパシー」が通じないことを嘆いたり、相手が「テレパシーを使う」ことに腹を立てる以前に、「テレパシー」以外の方法で話す機会が圧倒的に欠けているのだ。
この2人はご夫婦なのだが、夫婦に限らず家族や親友などの「親しい関係」ほど幻想に満ちた関係になっている場合が少なくないように思う。「親しい関係」なのだけれども実はコミュニケーション・レスになっている場合があるのだ。コミュニケーションをとることは、深く相手の事を知るという行為でもあるが、同時に「どうしようもなくわからないこと」の存在もわかることになる。「わからない」ということを避けるために、大事な相手ほど「本心を出さない(出せない)」という人もいる。あるいは「わかってくれるはず」「わかっていてくれるはず」という気持ちの方が先にたってしまって、何を聞いても葛藤や問題意識を回避し、本当に相手の事を見ず、聞いていないことが少なくないように思う。「わかってくれているはず」という前提を裏切られた意外性が相手に対する怒りや、「怒り」ではないが、強い言葉や感情となって表出することも少なくないようだ。
個人的に私が家族に対して「テレパシー」が通じないことを理解したのは、10歳のときだった。どんなに親しい関係でも、表さなくてはわからないことがある・・・そう知った当初は、そのことがもどかしくて泣いた。子供にとって大人の家族は神話のように「万能」な存在に思えていたのかも知れない。厳しくされても、自分のことを大事に思ってくれていることもなんとなくわかる。でもだからといって何も言わなくてもわかってくれるほどにわかってくれているものではない。そう知ったときに、私は言語の使い道を始めて考えた。自分の身体や言語を自分の意思を表明するものとして用いるにはどうすればよいのかと、初めて迷った。
私はたまたま10歳だったが、幸か不幸か、そのような葛藤を正面から経験せずに齢を重ねる人もいることを、この仕事をし始めて知った。関係性の形態にコミュニケーションの成立があるかのように(例えば、結婚しちゃえば相手のことがわかる、とか、こどもができれば大丈夫、とか)思い込む(あるいは思い込もうとする)人がいることも知った。一見直結しなさそうだが、そういう考え方の人の身体は、どこかバランスを欠いていることが多い。例えば腕を動かすにしても、それが胴体や脚などとの協調性や連動が成立して初めて安定して動かせるという発想(観察)がなく、ただ腕だけを振り回そうとしたり、「腕に出来ること」の認識のそもそも誤りがある場合も少なくない。自分の身体を知ることを通して、自分自身の考え方の癖や、人間関係のとり方の癖に気がつく人も少なくないが、私としてもダイレクトに「あなたの人間関係の取り方はおかしい」などと切り込むよりも、相手が自身の身体を通してそのことを知って(察して)いってくれる方が嬉しい。「あなたの人間関係・・」など切り出すと、多分それにショックを受けることの方にエネルギーが使われちゃって、それが具体的に何をさしているのかを知覚してもらえないことが多いからである。そのような知らせ方はコミュニケーションのとり方としてイン・ダイレクトかも知れないが、「伝わる」ものはこちらの方が的確なのではないかと思っている。

言語化することは大切なことだが、言語化したことしか相手に伝わらないとしたら、つまんない。もはやこれは存在というより認知の問題なのだが、例えばカタチのあるものとか、証明・再現が可能なものや、言語化したものだけしか認知しない(できない)癖をつけてしまうと、「心遣い」は「超能力」に近いほど不思議な能力になってしまうのかもしれない。「こころ」なるものも「まやかし」か「勘違い」に近いものになってしまうかもしれない。しかし日々身体のことに関わっていると、肉体的にいくら優良でもその身体に対する認識が伴わなければ引き出しきれない能力があることがわかってもくる。それは一見「不思議」なことかもしれないが、当然のことだという気がする。

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