えこひいき日記

2007年5月7日のえこひいき日記

2007.05.07

ゴールデンウィークも終了。今年のゴールデンウィークは、こころを決めて、仕事を一切しなかった。これ以上仕事をしたら「しぬ」と思ったので、事務所にも寄り付かず、自室にいるか(掃除魔になってしまった)、実家に行くか(庭掃除の鬼と化してしまった)、故あって、私の人生の中で詣でることなどないと思っていた伏見稲荷とか生駒聖天さんに詣でるなど(すっごく面白かった!しかしどう面白かったについては内緒だよん)して過ごした。うー、あっという間に終わっちゃいましたわ。

私、多分日本に帰って来てから、まるまる4日間事務所にも寄らず、全く仕事をしないというのは初めてだったかもしれない。休みを取っていても、自営業の悲しさか、連絡事項が気になったり、事務関係の事が気になったりして、結局そのようなことに手を出してしまうことも少なくないのだが、今年は全く何もしなかった。本当に「しぬ」と思ったんだもん。
仕事をしていて、年々感じるのは「人間の重さ」である。人は、重い。ほんとうに、重い。それは負担的な意味合いだけではなく、喜びの重みもあるのだけれども、いずれにせよ「軽軽しい」ものではない。重さと深さを持った一人の人間にまともに対していこうと思うなら、必然的に問われてしまうのは自分のあり方である。いろいろな方がレッスンに来てくださるのは嬉しいのだけれども、それにただ応じているだけでは「仕事」ができない。自分が何者なのか見失うほどに応じてしまうと、何かが違ってしまう。
恐らく全ての関係性において「どのように関わるか」と「どのように関わらないか」のバランスを取ることはとても大切なことだと思っている。人と対する仕事においても同じ。私の場合、そういうことを職業的に訓練されてもいるし、多分、個人的にもそれがあまり無理しないでできるほうだとは思う。しかし「一度訓練されているからフィニッシュ」ということではない。特にこのように人に関わらせていただく仕事をしている以上、絶え間なくバランスを取り続けなくてはならない。もしも「フィニッシュ」が「答え」だとするならば、そういう意味での「答え」など関係性には存在しない。
「答え」のない問題に向かい合い続ける体力がほしい。私は。

そんな連休中、タクシーの運転手さんと喧嘩をしてしまった。厳密にいうと、喧嘩ですらない。単にびびらしてしまった、という感じであった。
会話は何気ないものから始まった。運転手からの、連休中で、何所も混んでいて、有名社寺の近辺ではなかなか車がそこまで進めず、乗車したお客さんに降りて歩いてもらった、などという、よくある話から始まったのだ。「でも、なんでお寺が拝観料なんて取るんですかね」と運転手は言い始めた。この人物の言い分を要約すると、「寺は金を儲けすぎている」と言いたいらしい。夜間ライトアップや、拝観料の徴収なども、彼に言わせると、社寺の人間が私服を肥やしているとしか思えないらしいのだ。「お金を取るのって、神や仏に仕える人間がしていいんですかね」などという。
普段だったら、私はこの手の人間を「見捨てる」。
彼が言いたいのは、基本的には話している内容そのものではなく、愚痴と自己顕示なのである。「俺はこんなにがんばっているのに報われていない」「それに比べてあいつらは楽して恵まれているに違いない」「だからあいつらは悪い。攻撃してよい。それって、ちょっと社会正義っぽいし。そうでしょ?ね、そう思うでしょ?」と言いたいだけなのだ。
彼が「がんばっている」ことを否定するつもりはない。きっとがんばってお仕事をなさっているのだろう。でも、だからといってそこで感じた不満を見知らぬ誰かにぶつけても解決にはならない。解決にならない解消行為をしてはならない、というわけではないけれども、でも、したからといってどうなんだ、ということもある。
そう、結構手強いのは「極悪」な「悪さ」ではなく、こうしたちょっとした「悪」なのである。こういうのに出くわしたとき、そう対処したものかと毎度悩む。
「自分たちと関係のない人間は攻撃してよい」とか「その関係ない人間や、ここにいない誰かのことを悪者にすることで、それ以外の人間の中に曖昧な同盟感覚を作って自己肯定する」のは近所のおばさま方の会話やPTAやらでもよくみられる話だ。誉められた行為ではないが、彼らに積極的な悪意はない。でもそういうことをするの、あほらしい、と私は思っている。だからそういうことをする人間をたいてい私は「見捨てる」。即ち、曖昧な笑顔でその場をしのぎ、相手が私のことをどう思おうと相手にしない、という態度をとるのである。どうせ私はタクシーに乗ってきただけの客。この場をしのげればなんということはない、と思うことにするのが常ではある。
だが今回、私はそうしなかった。ものすごく腹が立ってしまったのだ。自分でも驚くくらい、それは非・感情的な怒りだった。感情的な怒りだったら、適当な理由をつけてその場でタクシーを降りるか、いつもよりさらに冷たい気持ちで「見捨てる」かで終わっていたと思う。非・感情的であったがゆえに「それって、違うと思いますよ」と言い返してしまったのである。私は、明治時代の廃仏毀釈や、文化財としての社寺の維持の大変さ、もちろん宗教的な意味でも経済的な意味でもまじめな関係者ばかりではないかもしれないが不埒なやからばかりでもない。なぜ「どちらかだけ」と決め付けるのだ、決め付ける根拠は何ですか、と反論してしまったのである。
相手が驚いたのは言うまでもない。基本的に彼は「反論」をくらうということを想定していなかったと思う。「そうですよねぇ」という(曖昧な)肯定だけを予想していたと思う。それに、どこかで「おんなにこういう話しをしてもわかるまい」というような、差別的な感情もあったのではないかと思う。「わかるまい」と思っているなら話すなよ、って感じではあるのだが、彼は基本的に「この話を話したい」のではなく「なんとなく威張れそうなときに威張れそうな相手に威張りたい」「あなたのおっしゃるとおりやわ、とか言ってもらいたい」だけなので、そういう人間が一見正論(正義)っぽい他者批判をぶつけてくるのはよくあることなのだ。こういう人間は「自分より強い者」「金がある者」を「悪者」呼ばわりするくせに、憧れている。仮に自分がお金を持ったり、かつて自分が「不平等だ」と批判していた壇上に上る立場になったときには、けして自ら段を降りて「平等に」なることはしない。むしろしがみつこうとする。それは、けして「巨悪」なココロではないし、まあ、かわいいものなのだろうが、愚かだとも思う。
「本当にこの話をなさりたいのでしたら、一方的に決め付けておっしゃるのではなく、もっときちんとお調べになってからおっしゃったらどうですか」と言い放った私に相当彼は動揺したようだ。「あ、もう、この話止めましょう、会社にクレーム言われても困るし・・・」などと言い出したのである。私は気持ちの底がさむーくなるのを感じながらも「会社にクレーム、とか言う話ではないでしょう。そんなことしませんよ。私はただ一方的に決めつけでものをおっしゃるのがどうかと言っているのです」そういうと、「忘れてください、忘れてください」などという。私は「いいえ、忘れません」ときっぱり言ってしまった。
とはいえ、実りのある会話が成立する状態でもない。話はそこでおしまいになってしまったのだが、運転手は私の機嫌を取ろうとしてか、やたらお天気の話をしてきたり、「この道、混んでますね。何かやっているんですかね」などと話し掛けてくる。要するに、先ほどの話も「お天気の話」レベルなのだ。彼にとっては。それを無視する私に対して彼は「いや、さっきはああ言いましたけれど、私らも観光客が寺に来るのでこうして仕事がありますし・・」などと言い始めた。最初っからその視点を少しでも持ってくだされば、こんなさむーい話にはならなかったかもしれないのにねー。

そんな状態になっている間にも私の中には様々な感情が去来していた。感じたままを言うならば、「途方にくれる」ような感じがメインだろうか。私が生きている世界はこういう世界なんだ。見ようとしない者は見ない。それでいて見たかのように決め付ける。こんな場所で私はこの先どうやって生きていったらいいんだろう・・・。涙がぽろぽろ出てしまった。本当は知っている。どうするでもない。ただ、バランスを取り続けながら、進むだけだ。でも、しんどいな・・・。

後でとある僧侶にこの話をしたら大爆笑されてしまった。「その運転手も、選んだ相手が悪かったですねー。それにしても珍しい。そこまでおっしゃるなんて、聖天さんでもついていたんじゃないですか」などと冗談まで言われてしまった。

まあ、いいんです。今日からまた仕事。がんばって生きていきます。

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