えこひいき日記
2007年5月12日のえこひいき日記
2007.05.12
私はキツネが怖い。正確に言うと、稲荷が怖い。不気味なんだもん。だから稲荷系の神社には参った事がなかく、参ることもあるまいと思っていたのだが、先日ゆえあって伏見稲荷大社に詣でる機会があった。ゆえあって自ら足を向けたので、怖くはなかったが、えらく疲れた。
そんなことを思っていたら同じようなことを物語中の人物に言わせている本に出会った。森見登美彦氏の『きつねのはなし』である。こわいよぉ。だいたい表紙がおもいっきり狐面だし。でも内容は面白いのである。
この本の事を知ることになった経緯も奇妙といえば奇妙なのだが、まあ乱暴に説明すれば、友人の友人が、友人に推薦したのがきっかけであった。推薦された友人が私のところにこの本を持って遊びにきたのが、私が知るきっかけとなったわけである。以前の私だったら表紙だけで「だめだぁ」と思い、目に入れることもしなかったと思うのだが、現在ゆるゆる免疫がつきつつあるので、近寄って見ることは出来た。でもにわかに手に取る勇気がなかったので、友人にちょっと内容を音読してもらった。すると、とっても面白いのである。いいところまで音読してもらったところで、タイムアップとなり、お話の続きが気になりながらも友人とはお別れした。話しの続きは気になるが音読してもらうためだけに友人を呼び出すのも気が引けるので、結局本の魅力に屈服し、本屋さんに注文してしまった。
「とっても面白い」と感じた、と書いたが、どう面白いかというと、妙な言い方だが「よく知っているお話を話してもらっている」ような感じなのである。「そうそう、そうなんだよね」みたいな、明らかに始めてなのに「知っている」感じ。その「感じ」を言葉や物語にしてみせてもらっている快感。こういうのを、なんというのがふさわしいのだろう。
同じような感じを映画の『シックス・センス』でも感じた。あの映画では、映画が始まったとたん、B・ウィリスが演じている役どころの方が「死んでいる」のだとすぐにわかってしまった。『きつねのはなし』でも誰が「きつね」なのか、「きつね」ならばこの後どうしてしまうのか、音読してもらっているうちにわかってしまった。
念のために申し上げるが、私はけして「マンネリな話で、先がみえる話」という意味で「わかってしまう」と言っているわけではない。もしもそうであるならば、まだ伏せられている何かが「わかった」時点で私は興味を失い、続きを見たり読んだりしたいとは思わないだろう。
面白い話というのは、多分、「まだ伏せられていることを知る」(オチを知る)ことが最重要事項ではないのである。最終の文章に至るその流れがとても「自然」というか、運ばれ方がよいので、結論めいたものが透けてみることがあるのかもしれないが、それが物語の魅力を減じさせるものではない。「わかって」なお、私は物語を読みたいと思うもん。
なんだか、子供が何度でも同じお話を読んでもらうのをせがむ気持ちが、大人になってみてちょっとわかったような気がしたのであった。