えこひいき日記
2007年8月27日のえこひいき日記
2007.08.27
池田晶子氏の『人間自身 考えることに終わりなく』と『暮らしの哲学』と『リマーク 1997-2007』を入手。『リマーク』と『人間自身 考えることに終わりなく』読む。
『リマーク』は著者のメモのような、文章の種を保存しておくようなノート(日記?)を本にしたものなので、「読む」というより「眺める」という感じ。1ページ眺めてはページから目を離す、という感じだ。思考の放し飼い。というより、躾のなっていない子犬のように、紙面の文字を見たとたん私の思考がどっかに走っていってしまうので、収拾がつかない。改めて思うが、「読む」というのは一つの筋道をたどる作業なんですね。たとえ何所に導かれているのかは未知だとしても。だから『リマーク』は「読もう」とすると苦しくて読めない。メモのようなものなのでセンテンスになっている文章の方が少ないのだから当然だが、思考が長く紡げないんである。まるでフォークで巻き取り始めたスパゲティが途中でぶちぶち切れちゃうような心地。そういうのを楽しめる気分のときに手に取ると面白いかな。
『人間自身 考えることに終わりなく』などは、雑誌に連載されていた文章をまとめたものらしいのだが、だいたい一つの話題につき4ページくらいの短文なので読みやすい。しかしながら、この話題を4ページで書く、というのもすごいなと思ったりする。池田さんの言葉の鋭さが光る。もちろん書き足りない話題については「前回の続き」などとして、続きを書いていらっしゃるのだが。
でも『人間自身』で取り上げられている時事ネタがそんなに昔のことではない・・・むしろ記憶に新しいネタであるのをみるにつけ、そして普遍的な話題であるのを感じるにつけ、彼女が死んでいて、私が生きていることがなんだか妙な感じに感じられる。生死が人の理解とか共感を断ち切るわけではない、と感じられるからだ。あたりまえか。でもそうすると、かえってわからなくなる。どうして私が生きていて、彼女が死んでいるんだろう。
彼女が死んでも、彼女が考えていたことは、終わらない。一人の人が生きているとは、死ぬとは、どういうことなんだろうか。まず本人にとって。そしてその人の思考に共感したり、反対したりする、その人以外の人にとって、どういうことといえるのだろうか。
『人間自身』の中には生死をテーマにした文章がいくつも出てくる。「結局のところ、「人生とは何か」とは、「生死とは何か」になるのは決まっている。本質つまり本当のことを知りたいと考える私は、もうずいぶん長いこと、そのことを考えている。」と本人も書いておられるくらいだから、どの話題を書こうとも、結局この話題に帰着するという感じなのかもしれない。そしてさらに続けてこう書かれている。「考えるけれども、考えるほどにわからない。というのは、じつは正確ではない。わからないということが、いよいよはっきりとわかるのである。」はい。全くその通りだと思います。
「わからない、ということがどんどんわかっていく」ことの只中に生きるのは結構タフなことである。私は「わからないということが、いよいよはっきりとわかる」ことを絶望的とは思わないが、タフなお話だ、とは思う。いろんな意味で元気がないと、終わりなく考え続けることは絶望的に思えるような気がする。そこまではいかなくても、「もうええやん」とか、投げやりに扱いそうな気はするのである。でも本当に「もういい」わけはないので、投げても結局一から考え直すことになる。だから、「考える」ことを非・常時にすることはまずい、と私は思っている。考えることは、人が行為することである。フィジカルにも。考えなくても肉体は動けたりはするけれど、その動きには「考えていない」ことがきちんと表れているものである。だから「いいかげん考えないと(やらないと)まずい」ときにだけ考えよう(しよう)として、でも考えつけていないからやり方に煮詰まって、スタミナ切れで投げやりになって絶望するよりも、常時接続で「考える」ことや「生きる」ことに向き合うほうが結局いい、と思っている。
だから私は今の仕事を仕事にしているのかもしれない。「考える」ことが「わからない、ということがわかる」ことであるとするならば、「わかっている」などと簡単に言い放てることはすなわち「考えていない」ということなのかもしれない。そういう意味で、「からだ」は「考えた事がない」くせに「わかっている」かのように認識されているものの塊りになりやすいような気がする。下手に物理的に存在するから、「からだ」は始末が悪い。だから、私にとって「からだ」をみることは、無意識の意識をみることである。その人の思考や認識のかたちをみることである。身体に対する認識がメインにみているだけど、みえてくるのはそれだけではない。
怖いことだけど、はっきり書く。考えないでいることは、生きていないことと同じことだ。
そういう意味で、生きないで生きている人たちを私はたくさんみている。その善悪を簡単に言うことは出来ない。生きる気もない人たちに「生きろ」とは私には言えない。でも、生きて生きたいと思う人たちに対して、私なりに手伝える事が在ると思っているから、多分この仕事をしているのだと思う。私に出来るのはあくまでちょっとした手伝いだけど。生きるのは、本人だから。
そういえば、池田さんはこうも書いていた。「生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち、生きている者は必ず死ぬ。」「癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。」
しかしこうも書いている。「死ぬ原因がうまれたことにあるのなら、生まれた原因は、何にあるのだろうかと。「死因」とは聞くが「生因」とはついぞ聞いたことがない。生まれたことに原因は、ないのだろうか。この考え方は、どこかおかしいのだろうか。」
実は中学生の終わりくらいに、同じようなことを考えた事がある。それは私が「焚書」にしてしまった日記に記した文言だったが、今でもはっきり覚えている。私はこう書いていたのだ。「生と死は対立概念であるような扱われ方をする事が多いが、本当に敵対関係なのか。生が死を生むのか、死が生を生むのか。生が死のバリエーションなのか、死が生のバリエーションなのか。」
私がこれを「焚書」にしたのは「下手に残しておいて、親にみられるとやばい」からであった。でもその「やばい」ことを、年をとった今ではこうして人前で書いてしまっている。現在私の親がインターネット上の私の「日記」をチェックするかどうかは定かではないが、読まれても別にいいよん、と思っていたりもする。では私にとってこの話題はもう「やばいこと」ではなくなったのか。そしてあの頃、どうしてこれは「みられるとやばい」ことだったのか。
あの頃「みられるとやばい」と思っていたのは、私にとってそれが「ほんとうのこと」だったからだと思う。本当に思っていることなんだけれども、自分でもどう考えていいのかわからないことだった。そのような段階のものを、ひとに(親に)見られるのは嫌だった。さらに、下手に私の思っている事が「わかる」と言われるのも「わからない」と言われるのも、「いい」とか「わるい」とか評価されるのも嫌だった。
では今なら何かがわかり、評価されることに平気になったのかというと、そんなことはない。相変わらず同じようなことを考え続け、ますますわからないということがわかり、その「わからないこと」が私にとって「ほんとうのこと」であることがわかった。でも「ほんとうのこと」に感じる「やばさ」は少し変わったかも。それは、私の生が死に少しずつ近づいているということかもしれない。生まれたなら死ぬのが「ほんとうのこと」だから。別の言い方をするならば、生死に関する私の付き合い方が年をとるほどに変化して言っているのかもしれない。
「ほんとうのこと」を言うことは、相変わらず少し怖い。でも、言わずに終わることも、それ以上に怖いと思ったりする。それが多分私にとって生死の問題なのだろう。生きて生きるか、死んで生きるか。
私が死んでも、私が考えているようなこと自体は、終わらないのだろう。でも私自身は物理的にはいつか死ぬ。そういうことが怖いことでもなんでもなく、「ふつうのこと」に思えるようになったから、怖くてもほんとうのことを言ってみることに臆面がなくなったように思う。その反面、生死の境というか違いというか、それが本質的によくわからないものであると、私はますます思うようになってしまったような気がする。アポトーシスとか引き合いに出すまでにもなく。
こまったなー。元気を保たないと、気が狂いそう。とりあえず、ちゃんと食べてちゃんと寝ないと、生きているうちにすぐに死にそう。
私は死ぬときにちゃんと死ねるのかな。それも重要な問題。