えこひいき日記
2009年12月7日のえこひいき日記
2009.12.07
12月にはいってしまった。なんだかとっても早いなぁ。
通勤路の猫たちとは、今も時々会えている。猫たちは時々車のボンネットの上にいる。きっと駐車したての車で、まだボンネットの上が暖かいのだ。あるいは日が当たると、温かいのかもしれない。
経験したことのないことを経験するには新鮮だ。11月後半はそんなことが多かった。
例えば、マンモグラフィー検査。私の場合、特に具合が悪かったわけではなくて、あくまでも「念のための検査」だったので気楽なものだったが、それでも大学病院というところで検査を受けたので、いろいろと「新鮮」だった。大学病院に行くのなんて、何年ぶりだっただろう。多分、10年以上行っていなかったために私はすっかり気分がウラシマ。カフェがあるー、とか、受付で端末を渡されて指示は全てその端末越しなんてハイテクな「ごっご」みたいー(何ごっこ??)とか、自動支払機で診療代を払うー、とか、ウラシマしているうちに2日間の検査が終了した。いやー、私の場合、体調が悪くなくての検査だったから、長い待ち時間も面白がれたが(ガルシア・マルケスの『生きて、語り伝える』新潮社 なんざ読んじゃったよ)、本格的に体調が悪い場合は体力いるな、と思った。とても不思議な世界だ。
不思議といえば、マンモグラフィー。私は初体験だったが、自分のニュウボウが落っことして踏んづけてしまった肉まんみたいな形になるのを見るのは非常に不思議な気分である。マンモグラフィー検査では乳房をプレスして撮影を行うので、よく「痛い」といわれるが、私の感想としては「pain」という意味での「痛み」の純度は高くはなく、「違和感」と「不自由さ」に「痛み」が加味された感じ、という感じであった。幸い、プレスによって起こる乳房そのものに生じる感覚はそんなにひどいものではなかったのだが、大胸筋や、腕の筋肉越しに感じる引きつり感のほうが強くて、検査技師さんから「力を抜いて」といわれても「カエルの筋肉反射と一緒じゃー。無理やがな」とつっこみ返したい気分になった。もちろん、実際にはつっこまなかったが。なぜなら、そこはそういう「会話」という名の「情報交換の仕方」を愉しむ場所じゃなかったからね。
診察はともかく、検査において「乳房」という部分をこんなに「純粋に物理的に」扱われるという経験も、新鮮だった。こういうことをいうとなんだが、自分の肉体の一部でありながら、この部位は「自分のためにある」という感じが希薄な気がする。ずいぶん以前にも、確かこの「日記」の中で、下着を選びにお店に行ったが、私の認識するカップ数より実際のカップ数が大きかったことをえらく店員さんに喜ばれて、一体この胸は誰のもの、その喜びは誰の喜び、と思った経験を書いたが、この部位は同じ肉体でも手や足の存在感とは違う感覚で付き合っているような気がするのだ。手や足は、ある種の操作感覚というか、そういう感覚を通して「自分のもの」という感覚が濃い。それに対して乳房というやつは、特定の他者との親密な関係性や(恋人とか、赤ちゃんとか)、ファッションなどのアイテムを通して性差に由来する魅力をアピールする媒体になったりとか、他者との関係性の中でより存在感を発揮するような気がする。自分のために自分の乳房があるというよりも、自分にとってきわめて「近い外」に向かって存在している感覚が強い。
肉体が、その人にとって「内」なるものか「外」なるものかは人によって感覚も違うし、部位によっても違うだろう。同じ胸部に存在するものでも、心臓などはけっこう「内」だ。でも今回検査のために乳房を挟まれ、きわめて純粋に物理的に扱ってもらったことを通して、「あ、ここも私の“内”なんだな、ふぅん」みたいな感じがした。ここもれっきとした私のものなんだ、と、妙な実感がわいた。
だからといってどうという話でもないのかもしれないが。そう思ったからといって、昨日と今日で私が大きく変わるわけではない。少なくとも、見た目に表れるほどには。
でも、一方で思うのだ。「私のもの」ってなんだろう、そんなもの、本質的に存在するのか、とか。
多分、本質的には、ない。
でも、現象的には、「私のもの」は、ある。
そしてそれは、やはり「私」にとって大切だったりするのである。たとえ本質そのものではなくても、本質を垣間見せるものとして。
ちょっと新しい体験としては、たいへん久々に「機能性重視ではない」服の買い方をした。
私の日頃の仕事は、いわゆるスポーツ・ウェアにわざわざ着替えて行うようなものではない。しかし床に転がったり、場合によっては開脚前屈をしたりなど、動き回ることもあるので「動きやすい普段着」を仕事中の服装として選ぶ。それは「自宅で洗濯できること」「アイロンがけなどの手間がいらないこと」という意味でもある。「そのまま外に出ていける程度のカジュアル」であることも多い。そういう服を飽きない程度に着まわしていく、となると、デザインや価格帯も含め、あるラインに収まってくる。○○クロさんなんかのお洋服には結構世話になっていたりする。
そういうお洋服に不満があるわけではない。
でも、
ドライクリーニングしかできなくて、着ていける場所が限られていて、「これを着よう」と思う気分も限られる服には、やはりそれ独特の美しさがある。意味、というか、主張、というか。無難じゃないものって、手ごわいけど、素敵。「このお洋服、きれい」という気持ちが先行して買い物する、という、なんでもないことなんだけれど、久々の体験であった。
この服はきっと事務所には着てこないんだけど、いいんだもーん、と満足している。
久々、というか再認識する体験、としては、新しい小型掃除機を購入。いわゆるダ○ソンのやつ。
このメーカの掃除機は、すでに一台自宅に持っている。猫と暮らす人間の掃除には強い味方なのだ、ダ○ソン。カーペットやマットにくっついた毛もきれいに掃除できるし、確かに吸引力は素晴らしい。ただ、私が購入したのはかなり前なせいか、この掃除機はいささか重い。ので、毛玉の住んでいない事務所の掃除は普通のポータブル掃除機で行っていた。
ところが。
先日、ドジなことに、コーヒーグラインダーを抱えたままけつまづく、ということをしてしまった。グラインダーの中にはひきたてのコーヒー豆。それを床にぶちまけてしまったのだ。仕方なく、ポータブル掃除機で掃除を始めたのだが、こやつ、コーヒー豆は苦手らしい。綿ぼこりのような軽いものならともかく、挽いたコーヒー豆のように粒が細かくてその割に重さがあるものの掃除ははかどらない。途中までは掃除機に頑張ってもらったが、あとは箒とぞうきんなどで仕上げた。
この一軒を境に、にわかに「はかどる掃除機」に対する購入欲求が高まり、ハンディタイプのダ○ソンを購入。いやー、すみっこの埃がどんどん採れます。おもしろくって、ひまを見つけては掃除をしてしまう。
新しいものを手に入れるのは面白い。それによって新たに見えてくるもの、するようになることがあるから。
でも、新しいものを手に入れた「私」というやつは、もののように新しいわけではないし、もののように新しくなるわけでもない。でも何かが変わる。さて、何が変わったんだろう…そういうことを考えると、面白い。
答えが出る話ではないけれど。