えこひいき日記
2009年5月23日のえこひいき日記
2009.05.23
「しょうがないけど、なんとかなる」ことって、ある。もう少し違う言い方をすると、「それが起きることは完全に回避できないけれど、それで終わりにならない方法は見つかるかもしれない」ことって、あると思う。
例えば今回の新型インフルエンザの流行も。私は「しょうがないけど、なんとかなること」だと思っている。「感染するかもしれないリスクは完全に回避できないかもしれないけれど、感染したからといって終わりじゃない」。
治るとはいっても、発熱や倦怠感はつらいし、感染しないに越したことはない。しかし相手はウィルス。生物学的な問題として、感染の拡大はけして異常事態とは言えない。むしろ生物としてのウィルスのまっとうな働きの表れに過ぎない。しかし彼らの活動は人間にとって「都合が悪い」。だから感染が拡大しないように努力するし、速やかに治るように努力する。
ここで大切なのは、人間側が守りたいと思っている自分たちの「都合」とはなにか、ということだ。
スケジュール?経済?健康?あるいは安心感?
一言でいってしまえば「日常」ということかもしれない。その人が、自分が保有してしかるべきと思っている「何か」だ。しかしこの言葉の内訳はなかなか複雑だ。人にとっても、自分が守りたい「日常」の中の、どの要素のプライオリティーが高いかも違うだろう。
逆に言うと、こういう事態になると、どの人が「日常」の「何を大事にしているのか」がばれてしまう。でも、何が大事かが自分で分かれば、強い。それを中心にして具体的な工夫を組み立てればいい。ただ怖がったり、不安にばかり目を向けるのをやめて。それは多少、その人のいつもの「日常」とは違った運営を迫ることになるだろうし、その「異なった運営方法を選ぶ(選ばざるを得なくなる)」ことを「(自分の日常生活を)犠牲にする(させられた)」ととらえる人もいるかもしれないが、「なんだ、少し方法を変えれば変わらず大事に出来るんだ」と思う人もいるように思う。
「ある方法での運営」に固執するか、運営方法を変えることで「何か」を守るか。主体は「方法」か、それとも「自分」か。どちらが人として「ふつう」なんだろう。
「感染者を加害者扱いする」「ネットなどの書き込みで誹謗中傷する」ということが起きているんだそうな。感染阻止できなかった政府や医療関係者、あるいは感染者が所属する学校などを非難するような書き込みもあると聞く。
かわいそうに。
書かれた方はお気の毒だが、それよりも、書いた人が。
それって「自分の日常の運営は“ひとまかせ”なんです。私以外の他人が全員ウルトラマンとなって完璧に私を“防衛”してくれなければ、私というホシは壊れてしまうんです」って言っているようなもんじゃん。しっかりしてよ、情けない。
「誰かのせい」「何が原因」と決めつけることで自分の中の不安感をそらしたり、そんな言葉を吐くことを「言ってやったぜ」とお門違いに得意になるのもいいけど、それよりも自分で出来ることを自分でしているのかなあ。ちゃんと手を洗って、うがいして、睡眠不足や栄養不足(または過多。これも内臓に負担書けるからね)にならないよう、「ふつう」にできてるのかな?「やらされている」なんて思わないでよね。誰も「させよう」なんて強いていない。あなたが何を大事にしているのか、自分で自分に何がしてあげられるのか、自分で選べばいいだけ。
人間って、難しいなあ。ウィルスにとっての「繁栄」と人間にとっての「繁栄」って、やはり相当意味違うんだなぁ・・・などと妙なことを考えてしまった。一人の人間が「繁栄」するのにはなんと多くの「養分」を必要とすることだろう。「知ること」「考えること」は、やはり大事だ。とても貴重な栄養素だ。日ごろ取るべき栄養。
でないと、ウィルスであるところのインフルエンザよりも、人間の中にあるある種の無自覚さのインフルエンス(影響)に対する対策の方がたいへんになっちゃう。それって、インフルエンザにかかるよりしんどいよ。
怖くても、考えよう。パニックや感情に流されそうになっても。