えこひいき日記

2009年8月18日のえこひいき日記

2009.08.18

お盆休みも終わり、昨日から通常業務。
お盆はお盆で忙しかったわ。でも、面白いこともいろいろあった。やはり仕事ばっかりしていてはいかんね。仕事で出来ることって、「仕事」だけだからなぁ。

ところで、ぼんやりテレビなど点けていたら、いわゆる夏場の怪談とか、芸人のチャレンジ企画(絶叫マシーンに乗ってリアクションを取ったり、猛獣に近づいたりとか)をやっているのをみた。
毎度思うのだが、なぜ「怖さ」が「娯楽」「楽しさ」につながるのだろう。

それは「怖さ」の問題でもあるんだが、本質的には「楽しさ」である気がする。いわゆる「楽しそうなこと」だけが「楽しさ」になるかというと、そうではない。「楽しさ」は複雑なのだ。芸人さんのリアクション芸はともかくとして、ある種の怪談が大変魅力的なのは、その内容が「先の見えない世界」「知らない世界」を描いているから、という気がする。先日、「はらはらするようなシーソーゲームが恐怖の対象でしかない」というクライアントさんのことを書いたが、一方で、世にいうそのゲームのファンにとってはその「はらはら」が楽しかったりする、とも書いた。苦労や努力なんて無意味にはしたくないけれど、そうしなくては手に入らないとしたら、避ける理由は何もない・・・そう思える「もの」に出会えることは楽しいことである。人によって「それ」が何かは分からない。恋愛かもしれないし、家族かもしれない。クラブ活動かもしれないし、音楽かもしれないし、仕事かもしれないし、学問かもしれない。食べ物かもしれないし、道に転がっている石かもしれない。そしてこの先もすっと「それ」が変わらず自分にとって「楽しい」ものかどうかも「わからない」。別の「もの」が「楽しみ」に変わるかもしれないし、「それ」を「楽しい」と思えなくなるかもしれない。でも、それさえ変わるかもしれない。

先がどうなるか読めないこと、それが何なのかわからないこと・・・そういうものに正面から向き合うこと、自分がその体勢・姿勢に入れること・・・それは疑うことなく「楽しい」ことなのである。もちろん、「わからないもの」でありさえすれば何に対してもそんなふうに思えるわけではない。同じゲームを見ていても人によってそれをどうとらえるかが違うように、ある人のとっては心ときめくものが別の人にとっては何も感じずに通り過ぎてしまうだけのものだったりもする。自分にとって「これは!」と思える「わからなさ」、向き合いたいと思えるものに出会えることがきっと大事なんだろうと思う。
私にとって「それ」は「人間」だ。たぶん。人間そのもの(?)か、といわれるとちょっと自信がないところもあるが、「人間」を考えること、「人間」を形作っているものや「人間」の世界観を考えることは「楽しい」。でも同時に、私にとって人間と向き合うことは心底「恐ろしい」。他のものが「わかる」などと偉そうなことをいうつもりはないが、「人間」は「わからない」。ときどき、真っ暗なモノを見つめているような気がすることがある。ちょうど明るいところから暗いところに入って、闇に目が慣れてほんのり何かが見えてくるのを待つように、辛抱図よく闇の中で目を開けているような気がすることがある。私はどうしてこんな「怖いもの」に毎日向き合うことを「仕事」にしているんだろう、と思うことがある。多分、この不可分の関係はこの先も変わらないのだろうと思う。いや、変わるかもしれんけど。

その一方で、「怖さ」の側から「娯楽」を見てみれば、ホラー映画作れる人ってきっと正確な(?)霊感とかない人なんだろうな、などと思ったりもすることもある。その「怖さ」は本当の怖さじゃない。どちらかといえば、「珍しさ」や「驚き」に近い。「怖さ」があっさり「娯楽」になりうるのは、それが日常的な感覚ではないから、なんだろうな、と思う。比較級として「目新しい」「ものめずらしい」から「面白い」のだ。

非日常的なことは、面白い。
どのように面白がるかによってはとんでもなく無責任な楽しみ方になることもあるんだけれど(例えば、薬物やアルコールによるトランスとか、相手を傷つけるような性的な妄想とか。芸人さんのチャレンジ企画をみて、げらげら笑ってしまうというのも、そうした出来事がものめずらしく、非日常的であるが故の、残酷さかもしれない)、場合によっては非日常性は日常性をグレードアップさせるし、支えもするし、より深い信頼感をもって日常に回帰するための力にもなる(お祭りとか、旅行とか、「仕事以外」のこととかね)。
だから「日常」と「非日常」は対立関係にあるわけではなく、質的に正反対のものというわけではない。並びながら異なっているだけの存在だ。そして何が「日常」あるいは「非日常」に帰属するのかも最初から決まっているものではない。あくまでその人の生き方によって「暫定的に」どちらに所属しているか、というだけのことだ。その人の中でもころころ移り変わることもある。本人がそれに気がついていることもあれば、全く気がついていないこともある。

まあ、ここに来ていただくレッスンだって、たかが人生の中の40分間。その人にとっては「非日常」の時間であろう。でも、だからこそ自分の「日常」の姿が見える。いつもとは違う角度でそれが見える。自分が何をしているつもりだったけれど、実際にはどうしているのか、思っているつもりの(あるいは「こう思わないといけない、と思っている」)ことと本当に思っていることに気がついたりもする。そうやって、その人の「日常」が豊かになってくれれば、とても嬉しい。

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