えこひいき日記
2010年1月27日のえこひいき日記
2010.01.27
届いたばかりのマイケル・ジャクソンさんのDVD『This is it』を特典映像も含めて一気見。
いやー、すごい!
楽しい!
いいもの見ちゃうと、うきうきして気分がいい。
奇しくも先日、ある演出家さんへのメールの中で私は「お芝居を作るのは細胞から人間一人を組み上げるくらい難しいこと」書いた。その演出家さんは「おっしゃる通り」と返信してくれたのだが、マイケルのステージ作りもまた、まさにそのような作業に思えた。
それも壮大なちまちま作業。
しかも、巨人とか、新しい天体とかいう規模のものを、組み上げるいきおい。
それをとても楽しそうにやっているのがとても印象的だった。みんな楽しそうだった。ダンサーも、ミュージシャンも、衣装さんも。すっごく大変なんだけど、肉体的にもハード極まりないのだけれども、楽しそうだった。そういう仕事に巡り合えるのは奇跡に近い。でも時々現実に起こってくれる奇跡だ。それはすっごいことなのだ。
そういうことが「ある」ことがありがたい。わたし、マイケルと直接的には何の関係もない人間だけど、見ていて「しあわせやぁ」って思ったもん。素晴らしいものは関係ないところに「関係」を作る。今まで知りもしなかったことが知りたいと思うことに変わるトキメキ、考えたこともなかったことを考えるようになる時の思い、とても大切なことを思い出す喜び…そういう「もの」を私の中に作り出す。そして、こんな「遠く」にいる私を励ます。
マイケルのDVDを見ていて唐突に思った。もしも、私が受け取ってきたものではなく、私がしたことからセレクトするという条件で、死ぬ間際に「生きてきてよかった」「いい人生だった」と思えるような「こと」を挙げるとしたら何だろうか、何をすること(しておくこと)が私の「生きてきてよかった」なんだろう、と。
ぼんやり頭に浮かんだのは、レッスンの中での光景だった。何度か「日記」にも書いていることだけれども、レッスンをしていて、ある動作、振り付け、あるいは音楽やせりふが「その人の身体」にマッチしたかたちで行われたときに突然「ああ、これってこういう意味のことだったんだ」とわかるときがある。急にいろんなことが伝わりやすくなって、クリアになるのだ。それは何が起こってそうなるのか、自分でもうまく言語化できない。ただ、うまく言語化できなくても私は何ら疑っていない。それはまぎれもなく私が仕事をする理由の中核をなすものだ。からだの痛みが取れるとか、できなかった動きができるようになるということも大切だけど、それはほんの序の口。そんなことは、その人の中にある「身体」への誤解をほんの少し、ほどいたにすぎないことなのだ。身体にはそれ以上の意味がある。
人の身体にできること。
それは思っているよりもすごい「こと」や「もの」なのかもしれない。
かといって、その「すごさ」は何もアクロバットができるとか、人より上手に何かができるとか、風邪にも病気にもかからず疲れも訴えないとか、いうことではない。
本当に敬意を払うべき「すごさ」を、表面的な都合や利害でしか解釈しなかったり、インパクトやセンセーションの大小でしか認識できない感覚の貧しさを、私は吐き気がするほど嫌っているし、これからも全力でそうした“ハエ”どもを払いのけながら仕事をしていくと思う。だが、ときどきそういう“虫追い”に嫌気がさして、仕事をすることを含めて何かに「関係」するということ全てから逃れてしまいたいと思うこともある。「関係」にまつわる素晴らしいところじゃなくて、しんどいところにしか目が向かなくなる時もある。
それでも。
私がハエタタキ片手に仕事をするのは、ハエが叩きたいからじゃなくて、道を作りたいからなんだ、と思い返す。あきらめていないから苦しい。それはとりもなおさず私が「進みたい」ということなのだ。だったら、進んでみよう。今はそう思える。
誤解される要素の高い発言かもしれないが、表現の世界において…「その世界」限定ではないけれど、特に…パフォーマーの「内と外」「魂と肉体」「意志と技術」の一致度の高さは「神」の出現を感じさせるものがある。そこには純粋な熱狂があり、一瞬で他者の人生に入り込む浸透力がある。とても影響力が高いものなのだ。だから「他者の人生に入り込むことのできる影響力」を持つそれは、例えば古来から宗教儀式では歌や踊り、あるいは特殊な身振りが神と人をつなぐものとして尊重されてもきた。それと同じ理由でしばしば警戒され、禁止されたりもしてきたけれど。つまり、パフォーマーの中で起こった「内と外」の一致は、やがて多くの他者の中の「外と内」の交流に広がっていくわけだ。時に強烈に、止めようもなく。
そうした交流は、親和も生み出すが葛藤ももたらす。
ちょうど、マイケルのムーン・ウォークを見て、できる・できないを問わず、みんなやってみたくなったり、「スリラー」を見てわくわくしちゃう人を生み出すように。あるいは彼の強い「影響力」に眉をひそめ、嫌う理由やダメなところを捏造したりデフォルメしてでも否定したくなる人も出てくるように。
それに偽者の「神」も多く存在する。自らを「神」というような人たちはたいてい、ただのおっちょこちょいである。彼らなりのセンセーショナルな体験があったことは確かだろうが、それが頂上だと勘違いしてしまう、うっかり者なのである。そのような人間は時に自分がどんなに傲慢で、その振る舞いが表現の世界の質そのものを貶めているかに対して鈍感である。
そこにもどうしようもなく現われてしまう「影響力」がある。一人が動けば「世界」が反応する。バタフライ・エフェクトみたいに。
だから、「どう生きるか」が大切なのだ。自分がどう生きるのか、生きているかについて考えるのなんて、何かコトが起こったときくらいになりがちだけれども、「日々」以外の「人生」なんてありえない。誰にとっても人生から除外できる一日なんてない。
結局、私が幸せな気持ちで受け取ったものは、私が誰かに渡したいものでもあったのだ。乱暴に渡したくはないもの。大切にしたいもの。だって、私の中で大事に抱きしめて生きてきた“たからもの”なんだから。
ああ、そうか、私の“たからもの”を他人に渡す、渡せる、ということが私の「生きてきてよかった」なんだな。それを気持ちよく渡せて、気持ちよく受け取ってもらえることが、そういう「関係」や「場」に恵まれることが、そのまま私の喜びにもなる(結局、また何かをもらっちゃう?)ことなんだな。
知りもしなかったことが知りたいと思うことに変わるトキメキ、考えたこともなかったことを考えるようになる時の思い、とても大切なことを思い出す喜び…多分、インスパイアする、ということ。その人の本質と技術が結びついてかたちを持つこと。私が思う「教育」の本質に近いこと。「内」を「外」に表すもの、こころの鍵を開けてからだを動かすもの、花が咲こうとする力の源・・・そんな感じのもの。
それを、義理とか義務とかじゃなく、お歳暮とそのお返し、みたいな感じじゃなくて、秘密の誕生日プレゼントを用意するみたいに、わくわくしながら用意できたらいいな、と思う。