えこひいき日記

2010年2月14日のえこひいき日記

2010.02.14

本日は旧暦の新年です。新月だ、新月。わーい。
本格的に「新年!」という感じがいたします。

1月にマイケルのDVD『This is it』を観た後、気になったので即過去のPVやライブ・パフォーマンスを収録したDVDを4枚ほど買い足した。CDも少し買い足した。観るにつけ、彼の人々を熱狂させるパフォーマンスがどんなに綿密なレッスン・・・あるいは、イメージと言ってもいい・・・を重ねた結果であることがわかる。本番の、ど派手なパフォーマンスもけして「やっちまえ」系ではない。派手なものが勢いだけで出来るものと思ったならば、大間違いだ。いや、勢いで派手なものは出来るかもしれないが、人を感動させるには不十分だ。DVDの中の、リハーサル映像と本番のパフォーマンスを何度か見比べて思った。彼のリハーサルは、「どうやりたいのか」が明確なのだ。そのベクトルが本番までを貫いている。本番になればそのときの雰囲気や空気、自分が感じたものに身を任せるパフォーマンスもある。でも、それを自分に許して自信が持てるのは綿密なレッスンやリハーサルがあるからだ。

「何をすることが稽古になるのか」は、日々よく考える。稽古や練習は、もちろんしなくてはならない。けれども、ただやればいいというものではない。特にある程度の技術を身につけた人にとっては、ただのルーティーンワーク、ただ回数や負荷が多いだけの練習は、意味を成さなくなってくる。それどころか、無用な練習や稽古の仕方は、練習や稽古をする目的であるものさえもつまらなく思わせたりする。
子供のころやうんと初心者のころは「何でもやっとけ、とにかくやってみろ」みたいな感じで、数や種類で練習経験を肥やしていいと思うのだが、大人になったら稽古や練習の意味は異なってくるように思う。最近つくづく、大人の稽古は、「垢を落とす」あるいは「垢をつけない」「磨き上げる」ことのように思うのだ。これまでの技術や経験、あるいは結果に慢心して「できる」ような「気分」になっている、この「気分」という「垢」を落とすこと。それは本当の自信とは似て非なるものなのだ。でないと、「これまでのこと」が「これから先のこと」を見えなくする材料にしかならなくなってくる。とても恐ろしいことだ。かといって、何でもかんでも新しいものに手を出すというような、大食い形式の練習は品がないし、誠実に積み上げてきた「これまで」のいいところを潰しかねない。大事なのは、自分という人間、自分が何をしたいのかということを知って、それにふさわしい「こと」を練習や稽古の内容とすることである。それは当然ながら一人ひとり違う。一人ひとり違ってよいことなのだ。

「芝居がかっている」とか「芝居じみた真似」とかいう言葉は、「本当のことを隠す」というような意味合いで使われる。日常の中で皮肉っぽく「お芝居が上手ね」といわれたら、それは「うそつき」「隠し事をしているわね(でも私はそれを見抜いているわよ)」という意味だし、「役者じゃのー」という言い方も、本当のことを言ったりしたりしている(と思われる)人に対して使われる言葉ではない。
しかし実際の芝居や演劇で行われていることは、その逆だ。芝居をすること、見ることで、「本当のこと」がみえてくる。演技をする者も、自分ではない誰かを演じることによって、かえってその演技者の何かが現われる。「自分」が見えちゃったりする。
演劇に限らず、芸術の持っている力というのは、そういうもの、という気がする。
現すとか、隠すというのは、正反対のことではなく、一つのことの加減なのだと思う。隠しても現しても、そこに何かがある限り、なにかは見えてしまう。
私自身も何かをすれば、何かが見えてしまう。私の意志が隠すほうにあろうが、現すほうにあろうが、関係なく。でもそこにも意志は働く。現したいモノを現せるように、精進せんとな、と思ったりする。

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