えこひいき日記
2010年2月17日のえこひいき日記
2010.02.17
バンクーバーで冬季五輪が開催中。凄く熱心に見ているわけではないが、観てしまう。
多分、私はいわゆる「スポーツ・ファン」ではない。特定のスポーツ種目が好きなわけではないし、オリンピックを見ていても、日本勢が勝てば嬉しいが、それは本人が「こうなりたい」と思ったことがかなってよかった、という意味で嬉しいのであって、厳密に言えば日本人選手の活躍だけを喜んでいるわけでもないような気がする。オリンピックのような大きな大会に出場することにしろ、好成績にしろ、全力を出し切ることにしろ、「本人の願いがかなってよかったね」と思っている反面、「よくやるなぁ」とも思っていたりする。スキーのジャンプとか、スケルトンやリュージュなんてほんまにスポーツか?!と思っていたりもするし(危ないじゃん!怖いもん!)、フィギュアスケートでも、あんなつるつるしたところでくるくるジャンプしようと思う気持ちがわからん、と思ったりする。数あるスポーツ競技の中でもことに冬季の種目は、自力で生み出せるスピード以上のスピードに乗るものが多い。しかもとんでもないスピード。そういうのって、本能的に生き物には怖いことと思うのだ。ただ、人間って変わった生き物なので、自力でどうにもならない恐怖をある形で受け入れることを快感に思うんだよね。へんなのー、へんなのー。
ただ、そうした「信じられないこと」を本当にしてしまう人たちの中にある「ほんもの」が見えるような気がするときがある。仮に「ほんもの」などと呼んでいるが、それをなんというべきなのか私にはまだわからない。ニュースの解説の人などの言い方を聞いていると「心」とか「魂」とか「情熱」という言葉で言っているようにも思う。だがそれとこれとが同じものを指しているのかも、私にはわからない。
ともあれ、それを好きで観ているのではない者までもつい引き込まれてしまう「なにか」、唐突に、私も前向きにがんばろう、などと思えてしまうものを感じさせてくれる「なにか」・・・・多分、私は「それ」を感じることがあって、オリンピックを見てしまうのだと思う。
今日は男子フィギュアスケートのショートプログラム見ていて、どきどきした。凄いなあ、オリンピックという大会は選手にとって時別なんだ、と思った。顔つきが違ったからである。人が本気になったときの顔って、いい。険しいだけでもない、緊張しているだけでもない、ピリッとしてそこから何かを放射していくような独特の表情をしている。
勝手な言い草なのだが、もう何年も前に、高橋選手が「一位を取る覚悟を決めたんだな」と感じた瞬間があった。私はただの視聴者の一人として何かの試合の様子をテレビで見ていたに過ぎないのだが、一位を取ることへの躊躇のようなものが消えた、と感じたことがあった。
競技やコンペティションに出場する人間が「一位を取ることに躊躇する」などというと、奇妙に聞こえるかもしれない。皆当たり前に一位を目指しているのではないか、と思うかもしれない。でも、この仕事をしていて、さまざまな競技やら、コンクールやら、オーディションに出る人たちをみていると、本当にはそれが「したいこと」ではない事例にたくさん接してきた。それは必ずしも「メンタル面が弱い」とか「やる気がない」とかいう意味に留まらない。もちろん、そういう人もいる。だが本当にやる気がない人は、悩まないから問題外なのだ。多くの場合、そのような言われ方をされてしまう人が苦しんでいるのは、一位を取ることではなく、一位を取ることを強いられることだ。
その競技に対するやる気や意欲と、一位を取る意欲は、重なりながらも異なるものだ。人によっては「異なる」ベクトルのほうが強い人もいる。いや、実は異なる人のほうが多いのかもしれない。人は何らかの意味で他者に自分を認めてもらいたいと思っているし、自分で自分という存在を認めたいと思っている。その方法があれなのか、これなのか、いつも探しているような気がする。その認められる方法が「一位を取る」という方向だけに囲い込まれたとしたら、誰にとっても基本的に苦痛だろう。一位を取るからこそ見えたり得られたりするものもあるが、一位を取ったからといって見えないものもあれる。一所懸命になりながらも、それが全てにならない大きな目で自分の姿が見えたとき、人は自分の力を放出しやすいポジションに立てるような気がする。
だからこそ、プレッシャーとか期待とか恐怖とか、何か大きな目標にすえたときに降りかかる諸々を吹っ切った人間の放つ輝きは、すごい、と思うのだ。
順位じゃなくて、いいものみたい。そういうオリンピックの見方って、不純なのかな。