えこひいき日記

2010年5月9日のえこひいき日記

2010.05.09

私の旅行の仕方はちょっと変わっているらしい。いや、私にも多少の自覚はあるのだ。たぶん、多数決でいうところの少数派だ、って。

「ちょっと変わっている」といわれるポイント・1 一人旅である
ポイント・2 旅の目的が変わっている

私はよく「知らないところ」に「一人」で行く。1月に訪れた高千穂も初めての場所だったが、一人で行った。このゴールンウィークには沖縄に行ったのだが、一人旅。沖縄へは2度目だが、今回訪れた宜野湾や北谷、金武(きん)は、初めて。
まあ、ものみな連れだって旅行に出かけると思しきゴールデンウィークに、一人で動き回っているわけだから、珍しいわよね。私だって誰かと旅行に行くことはある。誰かと行く旅行だって楽しい。
でも、それと一人で行く旅行では自ずと観るもの・見えるものが違う。違ってしまう。
だから、一人で見て、感じる必要があるとき、私はそういう旅の仕方をする。
でも、人によっては「旅」といえば「誰かと」なんだね。私のはそういう「セット」がされていないから、「セットされている」人から見れば、私は「セット外」。つまり、「変わっている」のだろう。

「沖縄に行ってきます」というと「あ、海ですね」と何人かに言われた。「いえ、海に入る時間はちょっと・・・」と答えると「???」という顔をされた。いや、無理もないと思う。「沖縄」といえば美しい「海」。自然な発想。

ところが私の今回の目的は「琉球八社巡り」だったのである。しかも、自分でもどうしてこういうことをするのか、よくわからない。(いや、一応きっかけというか、原因のようなものはあるのだが、言語化するのが困難な部分があるので、対外的に説明のつく理由だけここには書きます)

「琉球八社」というのは、沖縄本島にある琉球王朝から特別な扱いをされていた神社さんである。そしていまだに(?)ちゃんと神宮寺がセットで存在していることの多い神社さんである。お寺はほとんど真言系。旧社格(明治政府が作った神社の等級化制度。昭和21年に廃止されたので「旧社格」)にはそううち1社のみが入っているが、他は無社格。勝手な推測だが、廃仏毀釈の憂き目を強くは被らず、仏を置き、いわゆる本土の造化の神様を祭るとともに、琉球の神様も祀った、ゲネウス・ロキ(地霊)の存在を強く感じさせる神社さん、という感じがする。
実際に行ってみた八社は、実にぞれぞれだった。「老舗だけど、モダンな養子の若旦那が後継いで頑張ってます」みたいな場所もあれば、人知れず立ち枯れたような場所もあった。そうかと思えば、表からは知れないような静かな力を蓄えてひたすらに佇み続けるような場所もあった。

琉球八社のうち、六社は那覇市内にある。すでに遠方の二社のお参りを済ませ、滞在期間の最終日、那覇市内でタクシーを拾った私は「ここを巡りたいんですが」と運転手さんに六社の名と所在地を書いた紙を示した。運転手さんはしばらく紙を眺めていた。はっきり場所が分かる神社もあれば、名前は聞いたことがあるがどこにあるのかわからない神社などもあるとのこと。無線でお仲間に情報提供をしてもらいつつ(私の知る限り、沖縄のタクシーでカーナビ搭載車はほとんど見かけない)、市内六社巡りは始まった。
私は旅先で、よくしゃべる運転手さんに当たる。高千穂では「語り部」を兼ねている運転手さんに当たったし、出雲では行きの運転手さんから出雲大社の歴史と参拝作法を、帰りの運転手さんからは徳川幕府と神社の関係等々を聞かせてもらった。しかし今回に関しては、運転手さんはあまりしゃべらない。金武でも普天間でもそうだった。最小限のやり取りがあるだけだ。でもそれがそっけないとか、単に義務的な運転、という感じでもない。私もこの沈黙が退屈、と思わなかった。むしろ、こういう作意もなく空白でもない沈黙は、ちょっと心地よかったりするのである。
義務的ではない沈黙は「普通に」(いわゆる若者言葉で「普通に」って、けっこういい意味なのね。好み。)、それ自体ちゃんと「関係性」なんだな、などと思う。押し黙っていると決めて黙っているわけではないから、言葉が生まれるべきときには言葉が出てくる。一社巡るたびに、運転手さんはほんの少しだけしゃべるのだ。「この神社は初詣に来ます」とか「このお寺はお願い事があるときに来るんですよね」とか。「この神社は、こんなところに入り口があるんですね」とか。知識や情報を話す運転手さんは多かったけれど、この運転手さんがしゃべっているのは感想だ。期せずして、私の巡礼は運転手さんにとっても「巡礼」になっているようだった。ただ仕事で客を運んでいるというだけではなく、その人自身の体験になっている時間、というのは、なんだかちょっとうれしい気がした。そのことに「共有」などという言葉を使ってしまうといささかねちっこくなるが、関係を持つことが目的ではなく成立してしまう「関係性」のあり方は、なんだか「普通に」ありがたい。一期一会。「ご縁」というもの。
最後の神社を巡り終えてタクシーを降りるとき、私も運転手さんもお互いに「ありがとう」と言っていた。それは金銭のやり取りとそれに見合う運転についてのお礼ばかりではなかった、と思う。「お客さんを案内できて、よかった。ありがとうございました」と運転手さんは言った。私も「ご苦労をおかけしました。ご案内いただいてありがとうございました」と言った。それは必ずしも社会的礼儀ばかりではなかった、と思う。
「ありがとう」、って心から「普通に」思えることが、ありがたい。

旅のご縁といえば、初めて行った宜野湾の猫カフェで、店主さんや常連さんたちと午前2時くらいまで飲んでしまった。初めての場所に一人で行って、午前2時くらいまで飲んでいる、というのは、自分で計画してやっていることじゃない。自分でもこの自分の行動が意外といえば意外。だって、私はたぶん、ひとみしりなんだぜ。少なくとも、一人でいることを寂しいと思うタイプじゃないし、不特定に「友達」を作ることを目的に自分から積極的になる、という性格じゃない。でも、初対面の人たちと「普通に」楽しくお話をして、偶然に琉球王朝の末裔という人にも会い、ちょっとだけお参りについての話などもした。いろんなことが「普通」で、素敵な時間だった。

その一方で、突然無力感に襲われたりもする。いや、突然でもない。この無力感はいつも私の中にあるものだ。ただ突然、このくらいの量、こんなクラリティで私の中にあるということにまざまざ気付く瞬間がやってくる、それが例えばこんな風に一人で旅をしているとき、というだけのことなのだ。それが例えば夕方の北谷の海に足をつけているときだったりするだけなのだ。

そのどちらもが嘘じゃない。どちらかが本当というのでもない。どちらかだけを見て、どちらかだけを見ないということを私はしたくない。それは時々辛くもあるけれど。

そういえば、猫カフェで数人の方に「え、猫を飼ってるのに猫カフェに来るのですか?」「浮気ですね」と言われた。その方が「猫が飼いたいけれど、飼えないので猫カフェに来ている」人たちだ。その理由はその理由でわかる。でも猫と暮らしている人が猫カフェに来るのって、変なのかな?だって、「猫」を一般名詞の猫とだけ認識するとこんがらがるかもしれないが、私が一緒に暮らして居るのは特定の猫であって、そのほかの猫ではない。「猫」を「人」に置き換えてみると「え、人と暮らしているのに、人に会いに行くのですか」とか「友達がいるのに、友達を作るのですか」「既に友達がいる人が他にも友達を作るのは“浮気”」みたいな話にならないかえ?と思うんだが、どうだろう。
そういうところも、私は変わっているのか??

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