えこひいき日記

2010年7月13日のえこひいき日記

2010.07.13

ワールドカップが終了。始まったときはヨーロッパ勢よりも南米勢が好調とか言われていたが優勝したのはスペイン。意外、と評されるが、スペインだってけして弱いチームじゃない。ただワールドカップでの優勝経験がないだけのことだ。
勝敗なんてわからないものだ。つまり、絶対的なものじゃない。みんなサッカーに真剣で強いんだもの。最初から勝敗がわかるほど、誰かが圧倒的に勝っているわけでも圧倒的に劣っているわけでもない。
なのにどうして勝敗なんてつけたくなるんだろう、と思う。でも、ひょっとしたらだからこそ、勝敗をつけてみたくなるのかもしれない、とも思う。そこで見たいのは勝敗でもあるんだが、結果としての勝敗だけじゃないような気がする。そういう切羽詰ったモノを突きつけなければ表出されない何か。そいつが醸し出されるときに人は希望を感じるのかもしれない。変だけど。

それにしてもタコのパウル君。トーナメント8試合の勝敗を見事全て当てたというパウル君。「全て言い当てる」という稀なることをやってのけたタコは人を興奮させるし、戯れに「タコさんに勝敗を占ってもらおうぜ」などと思った、もともとの気持ち、“「わからない」ことを「わかりたい」”と思う気持ちをさらに高まらせ、ひいてはタコをコントロールすることで「わからないことをコントロールしたい」という気持ちに火をつけてしまうのもわからなくはない。
わからなくはないが、そういう「わかり方」って連想ゲーム的すぎるというか、あまりにも感情的。そういう感情は、時に怖い。ごひいきのチームの敗北を当てた時には「喰ってしまえ」などとそしり、「タコのせいで負けた」などと言う。「せい」って何??と思う。まるで魔女裁判だ。自分に都合のいいこと以外は事実であっても悪で、しかもそれはそれを口にしたもののせいいうわけか。
関係性があるということは因果関係があるということではない。タコが勝ち・負けを当てたこととゲームに勝敗がつくことの間に関係性がないとはいえない。なぜならゲームがあって、タコの占いがあるのは事実だから。でも、だからといってその勝敗結果が因果関係にあるわけではない。そのくらい、簡単にわかりそうなものだと思うけれども、聞きたくないことや見たくない事を目の前に出された嫌悪感の前では儚く吹っ飛ぶものなのかな。理性も使い慣れないと、使い方がわかんないものなのかもしれない。たとえ理性が自分の中に既にあるものであっても。使い慣れない筋肉や誤解したまま覚えている関節の位置と同じで。たとえ物理としては全うに筋肉や関節が存在していても、誤解の方を使い慣れていると、本来的な使い方は使い慣れないものと感じられる。
慣れや、癖とは、要するに、その人の世界観そのものなのだ。世界そのものじゃない。
感情を排除した理も現実的ではないけれど、理性のない感情も幸福とは程遠い。パウル君にとってこの騒動は多分うぜー話以外のなにものでもないだろうし、タコに八つ当たりする人も格を下げてさらに自分のしたことで不快になるだけのお話だと思うな。それとも、彼らにとってサッカーは「愛」ではなくてただの発散?!

人間は簡単じゃない生き物だ。理不尽さや残酷さや美しさを併せ持つ。肉体的な成長や加齢とはまた別の成長や衰退を重ね、死ぬまで揺れ動いてゆらゆらしている。そのわけわからなさに梃子摺る一方で、そのわけわからないところが魅力でもある。先日、お亡くなりになったことが発表されたつかこうへい氏の演劇の題材も、常にそこだったような気がする。

占いって、なんなんだろうね。占って、何が見たいんだろう。占いって、当てることが大事なのだろうか。当たってほしいことが当たる事が大事なのだろうか。
当たってほしいことが当たりますように、というのは「祈り」ないし「欲(善く、って変換も出るな)」ではあろうが、その行為自体は「占い」ではないと思う。当たってほしいことが当たるように操作するのは占いの仕事ではなく、呪術と呼ばれるもので、カテゴリーが違うと思う。でも、ごっちゃになりやすいのかな。私の知る限り、本当に呪術に手を出すなら作業はどんな小さなことでも命がけになるから、普通に覚悟したほうがいい。多分、呪術に手を出すか否かというエッジに追い詰められるか否かを問わず、何かを願うことはすなわち己を問われることに他ならない。

よくわかんないけど、パウル君のワールドカップ占いなんかみていると、それは「みる」「素直に反応する」ということと関わるんだろうな、とは思う。タコだけじゃなく、鯰やネズミが地震を予知するとかいわれるのも、人間のように「そんなはずない」とか「こうであってほしい」「こんなこと言って反感を買ったらどうしよう」とか、いちいち思ったりしない行為が、ごちゃごちゃ思ってしまう人間から見れば「不思議」「予知」に思えるのかもしれない。いろんな感情や計算をごちゃごちゃ背負ったままで「何か」を「みる」のはとても難しい。それは、何も占いだけの話ではなく、カウンセリングでもアドバイジングでも同じだ。多分、本質的に会話することさえ難しいと思う。

仮にもし、ごちゃごちゃしているのが人間の特徴だとするならば、人間に備わった動物より得意なことって、何なんだろうな。

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