えこひいき日記

2010年8月6日のえこひいき日記

2010.08.06

幸いなことに現在のところ、うちの猫の体調は低く安定している。相変わらず口腔内に腫瘍があり、口が閉まりきらず片目も瞬膜が出たままなのだが、自力でご飯が食べられるようになってきた。

猫や犬の1歳は人間の20歳もしくは1歳半を21歳と換算するという。ただ、その後も1年に20歳年を取るわけではなくて、その後は1年につき4歳~6歳加算していく。「斉藤式」と呼ばれる換算式によると

成猫期 1歳~5歳 猫の年齢×6+15=人間の換算年齢
壮猫期 6歳~10歳 猫の年齢×5+20=人間の換算年齢
老齢猫期 11歳~15歳 猫の年齢×4+30=人間の換算年齢
老齢猫期 16歳~25歳 猫の年齢×3+45=人間の換算年齢

──『ネコのサインを見逃すな』斉藤昭男・著 鈴木立雄・監修(アドスリー)より

となるらしい。

その計算によると、うちの猫は99歳だ。来年になれば102歳である。この子は在米時代にひとからもらった猫なので正確な生年月日はわからないのだが、計算式によると老齢猫は1年で3歳年を取る。4ヶ月が1年、という換算だ。今年も8月になった今、わが子はもう100歳を超えた可能性が高い。その年齢になって自分で歩いてトイレに行けて、自分でご飯が食べられるとなれば、上等じゃないか、と思ったりする。
とはいえ、実際のところ「何歳だからこれでいい」というだけでは片付かないお話でもある。私自身「老猫だからこれでいい」なんて思ったことなど一度もなくて、もっと早くこの体調不良に気がつけなかったのか、このことが起こることを防ぐ努力を私がもっと出来たのではないかとか、本当に今のやり方でよいのかとか、もっと出来ることがあるのかないのかとか、ことあるごとに自責気味に思う。でも今私が出来ることは、今出来ることをすること。自分を責めることで目の前の何かから目を背けている場合じゃない。望んでいることはシンプルなこと。わが猫にはなるべく幸せでいてほしい。何が幸せだかわかんないけど。私には、何でも出来るわけではない。でも、やれることはやってみようと思う。

ところで人間の世界の日本では、このところ「高齢者の所在がわからない」ということがニュースになっている。地域の最高齢者として誇らしげに報告されていた人たちの所在が、実は行政にも家族にも把握されていなかったなんて、なんだか奇妙な気がする。当たり前のことかもしれないが、人って誰にとっても同じ意味の「人」ではないんだな、などということを改めて思う。
高齢者はある視点や立場から見たら「誇るべき日本の健康」の象徴なのかもしれない。一方である立場からは「お金」なのかもしれない。年金や恩給を支払う側、受け取る側との、違いはあるかもしれないが、お金の観点からその人の存在や生死に関心をもつことも現にある。あるいは「いるけどいない人」なのかもしれない。その高齢者は誰かのおじいちゃんであり、おばあちゃんであった人かもしれない。母や父であった人かもしれない。子供を持たなかった場合でも、確実に誰かの子供ではあった人だと思う。誰かの知り合いではあったと思う。「便りがないのは元気な証拠」「亭主元気で留守がいい」というのは、その人が「在る」ことをちゃんと受け止めているからいえる言葉なのかもしれない。でもそれとは似て非なることとして、居ることも居ないことも関心しない関係性や、存在を消したい、居ることが面倒、と思う関係や環境が人と人との間には生まれてしまうことがある。

高齢者の一方で、大阪では幼い子供二人がマンションの一室に置き去りにされ死亡するという事件が起きた。「置き去りにされ死亡」という数文字で書けてもしまえる顛末だが、その実際に何が幼い子供たちに起こったかを想像するだにすさまじい。現在事件が起きたマンションには献花台が置かれ、事件にショックを受け思いを寄せた人たちからのお供えが絶えないという。辛いことではあるが、思うこと、知らなかったことでも想像してみることで何かが生み出されることもある。自分の子供じゃないから、自分の知っている子供じゃないから、知らない、んではなくて、自分の子供じゃないけれど、知らない子供だけど、何かしたい、助けたい、と思えることはやはり凄い、と私は思う。

そのまた一方で、すっかりつながりを消したいとか、誰かが邪魔とかいうのではなくても、ひとりになりたい、という気持ちもあって自然だと思う。「関係ないけど助けたい」と「ひとりになりたい」は相反する気持ちのように思えて、そうではない。人が関係することを幸福と思えるには、この二つがどちらも要るように思うのだ。誰かとつながることだけを善としたり、あるいはひとりを大事にすることだけを善としたり、簡単に善悪をつけて解決したような気持ちになってしまうことがかえって物事のバランスを見失わせているように思う。

人間が幸福に生きていくのって、なかなか大変。

人がつながれもし、個として自由であるためには何が大事なんだろう…などと考える。そんなこと、簡単に答えが出せるわけではないのだが、今私の頭に思い浮かぶのは「ごめん、じゃなくて、ありがとうで関係を持てることかな」ということだ。人と関係すること、世話になることを「ごめん」と感じるか「ありがとう」と言えるかはすごく違うと思う。「こんなことしていただいて、迷惑でしょ。ごめんなさい」というのは、一見奥ゆかしい態度だが、極論で翻訳すると「あなたに恩を感じることが私のプライドを傷つける。ありがたさを感じてしまうことが自分の心に負担なのだ」というメッセージでもある。つまり、これは関係を断つ言葉なのだ。それに対して「ありがとう」には「責任」と「必要性」がある。「あなたに世話や苦労や負担をかけるかもしれないことはわかっている。でも、私にはそれが必要だったのです。ありがとう」と言えたら、おっとなだなー、と思う。
がんばろう、おとな計画!
年齢を重ねるだけでは「おとな」にはなれないからね。

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