えこひいき日記
2010年9月15日のえこひいき日記
2010.09.15
猫の闘病生活は相変わらずだ。「相変わらず」というより、現実には「悪化している」というほうが正確なのだろう。処方された抗生物質が切れるタイミングで病院に連れて行き、チェックを受けている。どんどん食は細くなって痩せる一方だ。腫瘍は肥大し、声も出にくくなってきている。口が閉まらないので絶え間なく血とよだれが流れるので被毛はがびがび。拭っても拭っても。こんなとき、うちの猫が黒猫でまだしもよかったと思う。仮に白毛の猫だったなら、かなりの衝撃スプラッター映像である。
先日はまる三日間食べ物を食べてくれなくてどうしようかと思った。三日目の夜に自力でご飯を食べたときには、地球の重力が急に減ったかと感じるくらい、ほっとした。自力で食べてくれて率直に嬉しかった。その夜は私もよく眠れた。
しかし同時に思うのだ。私はどういう希望を抱くことが許されているのだろう、と。誰かが私に許可するのではない。私が何を望んでいるのか、なのだ。私は何を望んでいるのだろう。私には、どうしても「何が何でも猫が全快していつまでも私のそばにいてくれますように」と願うことが自分に許可できない。私がせいぜい自分に許せるのは「起こるべきことが、なるべくスムーズに起こりますように。それがうちの猫にとってなるべく苦痛でないことを願う」ことぐらいだ。私は本当に私の気持ちを言語かできているのかな?わからない。猫がやせこけてご飯を食べなくなっていくのを見るのは悲しい。ご飯を食べてくれると嬉しい。だが、それで猫の状況が変わるわけではない。では、変わらないから、治らないから、「絶望的」なのかというと、それもなんだか違う。私が感じている「これ」はなんなのだろう。
猫は今朝ベランダを何度も何度も歩き回っていた。何がそんなに猫の注意を引くものなのか皆目わからない。でも猫の態度は決然としている。とても熱心で好奇心にあふれている。私が仕事で留守をしている間に番を頼んだ人からの報告によると、その後も猫はベランダに出せと要求し、なんと隙を見て隣の部屋のベランダにまで行ってしまったのだという。普段は私がそんなことをしないよう、鉄壁にガードしているのだが(ベランダの、やや大きめに開いた隙間から道行く車や人を覗こうとすることがあるのだが、がりがりになったからだでは本当に隙間から落ちそうになるので、猫がベランダに出るときは必ずついて歩くのである)、私がいない隙を見計らうとは侮れない。番をしてくれた人があわてたのは言うまでもない。名前を呼んでも、おもちゃを振ったりして気を引こうとしても、完全に無視。しかし気が済んだらこれまた決然とした態度で、悪びれもせずたすたすたと戻ってきたという。
そういう猫の様子に、私は凄く助けられている。血まみれでも、がりがりでも、嬉しいときにはごろごろと喉を鳴らし、好きなことをする。猫は自分を憐れまない。それは何かとても大事なことを見せられているような気がする。
そんな感じなので、猫が3日とか、2日とかご飯を食べてくれずにやきもきしながらも「君は本郷かまとさんかっ!!」と勝手につっこんだりしている。(本郷かまとさんというのは、かつてご長寿日本一だった方。その方の睡眠・覚醒サイクルが「2日起きていて2日寝る」というものだった。うちのこの食事の周期もそんな感じなので、つい・・・)
ことを軽々にとらえているからではない。でも、重々しくとらえることだけが本当のことというのでもない気がしている。