えこひいき日記
2011年1月20日のえこひいき日記
2011.01.20
昨日のニュースで、いわゆる『人体の世界展』で展示されているものは「遺体」ではないかという訴えが出た、という話を聞いた。
「ほぉ」という感じ。
「何で今?」という気もする。このタイプの人体標本を展示物とした展覧会は日本で既に10年以上前から行われているからだ(今の主催者での展示興行は10年弱かと思うが)。とはいえ、これは問題になってしかるべきことかとも思う。一方的に「よくない」という意味での「問題」ではなくて、「人は人のからだに何を見ているのか」、ということがもう少し真剣に論議されてもいいと思うからだ。
訴えられている内容は、基本的には現在の日本の法律に抵触するのではないか、という点である。現行の法律では「遺体」を「保存」したり「保有」したりすることは特定の医療機関や大学にのみ許可されることだからだ。
しかし訴えられているのはそのことだけが問題視されているのではないことは想像に難くない。
突き詰めれば、そこにある「問題」とは「人とは何か」という問題なのだ。
死んだ人間の肉体は、人か、モノか。
そしてそれは誰のものであるのか。
ひとの内部、人体という組織を深く知ることによって生まれる人や命への畏怖と尊重がある一方で、それを暴かないことが尊重だという意見もある。見ることで学べるものがあるのも事実だが、率直に言って見て気持ちのよいものではないのも事実だろう。人によってどちらかである、というより、一人の人の中にこの二つの意見は同時に存在する気がする。どちらの意見に今より傾いているかによって、その人が示す意見と行動は異なってくるだろうが、それも固定的に永続するわけではない気がする。
展示されている標本に特定の「個人」をみないからこそ「見える」ものがある一方で、社会生活を営んでいる限り、その標本は必ず「誰か」であることもまぎれもない事実である。もしも標本が「誰」であるか、ということが(そういう認識のもとに展示を見るという以上に)展示という名の好奇の対象になるとしたら、それはやはり快いこととはいえない。さらに、それが興行という経済行為として成立していることも、「尊厳」や「尊重」のあり方をややこしくしているのかもしれない。例えば献血や臓器提供という「ひとの一部を提供する」行為にもしも金銭的報酬が絡んだら、きっとややこしくなると思う。基本、無償の提供行為だからこそ、その行為の意味するところが機能しやすいところがあるのではないか。
また「尊厳」が常に最優先事項か、という意見もある。例えば、私の仕事にしたって、ひとのプライバシーに踏み込む仕事だし、その過程でクライアントがむっとするようなことも言わねばならないことがあるし、しなれない動き方をさせて快適とはいえない感覚を感じさせることもある。けしてむっとさせたいわけではないし、不愉快な思いなどをさせたいわけではないが、相手が感情を害することを恐れてばかりいては何も進展しない。相手を尊重しているからこそ、必要が在ればそれに踏み込むのが「仕事」と私は認識しているわけだが、全ての人間がそう感じるわけではないだろう。
とはいえ、どう扱おうとも、「ひとのからだがなんなのか」ということが本質的に変質するものではない。だからこそ「どういうつもりでそれをするのか」が「問題」になるのだろう。
遺体や標本の人の尊厳もさることながら、生きている肉体の尊厳も、この際広げて考えてくれたらなあ、などと思う。けっこう、生きていることにかまけて(?)ひどい扱いをしていることに気がつかないこともあるし。
人が人について考えるのは、簡単じゃない。考えながら生きていくことも、簡単、とは言いがたい。でも不可欠とも思うのだ。