えこひいき日記

2014年12月28日のえこひいき日記

2014.12.28

ある日の夜、私は人間というものを呪いながら道を歩いていた。それはあるお芝居が素晴らしかったせいである。
ナショナル・シアター・ライブの『オセロ』。
英国の劇場で上演された演劇を記録して、映画館で上演するスタイルのものなのだが、とにかく人間の「いやなとこ」「おろかしいところ」がすごくよく表現されていて、最後にはその役を演じた俳優を本当に「いやなやつ」と嫌いになりそうになるくらいだった。

なんでこんなことがおこるのかなあ。
(複数の意味でそれを思っているのだが)

その『オセロ』は、舞台は現代に置き換えられていたが、セリフは古典的なシェイクスピアのもののままだった。
その時点で既に、私とそれとを隔てる材料は存在している。慣れない英語のセリフ、しかもイギリス英語、しかもシェイクスピアのセリフの、センテンスの長い、普段の口語とは全く言い回しの違う言葉。字幕もついているが、字幕を追っているとどうしても画面(演技)への注意力は落ちる。
そうした「隔たり」が存在するにもかかわらず、目のそらしようもない何かが流れ込んでくる。
まるで忍び寄るように。
こうした伝わり方の理由あるいはその形容を「圧倒的な演技力」とか「やはり王立演劇アカデミーの役者はすごい演技力なんだね」といった言葉でカタをつけるのは、おさまりのいいことかもしれない。
確かに、結果的に「圧倒的」な「演技力」なのである。
しかしそれは、いわゆる「圧倒」のような、はっきりとした強い圧力を感じさせるものではない。
大げさな演技やアクションは一切ない。むしろ、いつ、どのような変化が起こったのか、どこがこのような悲劇的事態に至る決定的瞬間だったのかが全く分からないような、まさに水が流れ込んでくるような運びなのである。そして私は、その水の流れを食い止めるすべも知らず、最終的に「人間って…人間って、もうっ…」とか呟きながら京都の夜道を歩いて帰路に就く羽目になるのである。

『オセロ』を観て以来、テレビをつけてドラマなど見ると「きれいだな」と思うようになった。
なんとまあ、美男美女をそろえて「みやすい」画面が作られていることか。物語の中で人が殺されても、人格が崩壊しそうなくらい追いつめられて悩んでいても、視聴者がそこから目をそむけたくなったりめったに呪ったりまではしたくならないように、「みやすく」してある。
うつくしい。
でも、その「みやすさ」が「隔たり」に感じられるようになってしまった、あれ以来、特に。
楽しいんだけどね。フィクションだし。

それにしても、表現芸術の世界は不思議である。
今自分が観賞したものの結果、例えば人間を呪いたくなっても、最終的に人間を素晴らしいと思ってしまう。
呪いたくなるような気持ちを引き出せるほどの演技ができるのも人間だからだろうか。描かれているモノが何であれ、そこに「ほんとう」が含まれている限り、なんだか救われてしまうのはなぜだろう。
そういうものに触れるたび、ああ私はこの世界が好きなんだな、と思う。
だから人の中から「ほんとう」を引き出す、こんな仕事をしているのかもしれない。

「ほんとう」に触れることを、私は「最終的に」素晴らしいと思ってしまうのだが、人によってはそうではないかもしれない。「短絡的には」素晴らしくない時もあるからである。

例えばこんなことが最近あった。あるクライアントさんが、体質改善のために食事療法にトライして、とても体調がよくなった。気分もすっきりとして晴れ晴れとしているという。それは大変素晴らしく、かつ目的にかなった結果でもあるのだが、ちょっと困った顔をされて言葉をつづけた。「でも、仕事が遅くなったのです」
その方は福祉関係の仕事をされていて、日にもよるのだが、迅速な対応を要求されることがある。また、心身ともに余裕のない相手から荒っぽい言葉や配慮の行き届かない態度を示されてもいちいち傷つかないような割り切りというか、ある意味「コトを無視する技術と体力」を日ごろ装備している。しかし自分の体に合った食事をとることで、その技術的武装が解除され、本来の自分の性質やペースが前に出てしまったために、仕事への対応スピードに変化が生じてしまったのだ。そのクライアントの場合、今の仕事は本人の技量には見合っているが、性質に合っているとは言えない職業だったこともある。

さまざまな「ワーク」といわれる技法や宗教的な修養を通しても促されるように、心身をスーパークリーンにする方向で見直し洗浄してみることでこそ見えてくる境地がある。その一方で、スーパークリーン丸出しのままで生きていくには「社会」という場所はなかなかワイルドすぎることも事実だ。だから、日ごろ、人は知ってか知らずか、ちょっとした「毒」を摂取することで本来「合わない」ものへの耐性を作っていたりする。「毒」に反応して生じるちょっとした「熱」あるいは「怒り」みたいなものを「やる気」や「元気」だと感じていることは多い。「毒」の摂取量が多すぎたり、アディクトしたりすると、無差別に人を刺してしまいたい、みたいな誤った「やる気」になってしまうんだろうが、がつんとした味の食べ物や、酒やたばこといった「薬物」で、他人と差を付ける高価なブランド物や、権威や情報や肩書で、あるいはまた特定の他者に依存することで、「生きにくい」と感じる何かに対応して日常を生きおおせる術を手に入れることは、けっこう「ふつう」のことだ。

だから自分の性質に合ったスーパークリーンな生活とまるだしで誰かとつながろうとするようなイノセンスを何の疑いもなく「善」と呼べるかというと、私には呼べない。一方で、いくら立派な「社会人」だからって、その一事をもってして「善」と言い切ることも、私にはできない。
やっぱり、どこまで行っても、愚かしい、ぐらぐらな人間。
でも。
そのやっぱり立派じゃない人間が描かれるのを、お金出して時間を割いて、劇場やギャラリーやアトリエにまで足を運んで喜ぶのって、なんだろうなあ、と思うわけである。
レッスンを通して人の「ほんとう」を引き出してみても、それがすぐに喜べる事態につながるとは限らないことも多い。
でも。
やっぱり「ほんとう」を通してしか見えてこないもの、表現できないものがある気がする。

なんか気分はスガシカオ氏の「夜空の向こう」みたいになってきたが、こうしてくれていく私の2014年なのでありました。
よいお年を。
そして、また来年!

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