えこひいき日記
2018年1月29日のえこひいき日記
2018.01.29
気が付けば1月も末になっている。時間がたつのが早いのか、遅いのか、よくわからない今日この頃。
年末年始に家族の風邪をもらい、いきなり寝込むところから新年がスタート。今年は元旦が月曜日ということもあり、短めの年末年始休暇で、あれよあれよという間に仕事始め。
休みの間にしておきたかったことはまるっとできず、休暇中に出席するはずだった講座は休まざるを得なくなり、遅れを取り戻すのに焦る日々。そしてこの時期恒例の、確定申告のための資料作り。ここれももろもろ例年にないちょっとしたトラブルがあり、わーわーいっていたら、今日なのである。その最中にもやっておきたいことがあったのに、どこかで「資料作りが終わるまで落ち着かん」などと言って手を付けない自分もいて、ほんとややこしい。
あと、年末年始といえば、恒例「猫合宿」の時期でもある。
年に2回ほど長期出張する友人の猫2匹をお預かりする時期なのだ。前回のお預かりの時は、ちょうど奏が亡くなった時期で、ゲスト猫さんたちにもお見送りいただいた。今回は奏亡きあと初めての合宿。
奏が亡くなった後、残されたうちの2匹の猫たちの様子は変わった。
例えば、高い場所に陣取ることにこだわらなくなったこと。お風呂見学をしなくなったこと。
「高い場所」は猫にとって「優位」を意味する場所で、基本的に奏がそこをとっていた。そして「すきあらば」という感じで、時々ほかの子たちが座っていた。だからといって喧嘩が起こるわけではない。でもはっきりと、「高いところ」は彼らの関係性において「意味」を持つ場所だったのだ。
しかし奏がいなくなってからは、年が近い子たちの間では「優位」を示したり意識したりする必要が薄らいだのか、以前のようにこだわらなくなった。「高いところ」は、ただそういう場所にある居場所の一つ、くらいになった気がする。
お風呂見学は3匹の猫が全員でやっていたことだったので「みんなお風呂に興味があるんだ」と思っていたのだが、奏亡き後ぴたっと誰も風呂場に入ってこなくなった。つまり、あれは奏の好みで、年若い子たちは後追いや真似をしていただけらしいのだ。
しなくなったこともあれば、するようになったこともある。
楽(がく)はよく奏がしていた「かまってほしいときに伸び上がって人間の肩をたたく」をするようになった。不思議なことに、奏がいた時に楽が真似たことはなかった。
で、迎えた今回の「猫合宿」。
ほぼ同年代4匹の関係は、なんというか、フラット。以前より全員でよく遊ぶようになったのが印象的であった。奏がいた時は、やはり奏の存在が大きく、気を使っていたというか、意識していたように思う。
「奏がどうするか、どう思うか」を気にしなくなった4匹の遊びはなかなか激しく、無言のまま続くプロレス、無言のまま続く誰かと誰かの追っかけっこ、と、なんとも運動量増し増しの合宿になった。
そしてゲスト猫さんたちがあからさまに私に甘えるようになり、くつろぐようになった。
不思議なもので、飼い主さんが様子を見に来ても、私の家の中では彼らは逃げるのである。元のおうちに帰ると普段通り甘えるらしいのだが、猫の認識回路はどうなっているんだろう。「ひと」と「場所」はセット認識なのかな。
おおらかに遊ぶおこちゃま4匹を眺めつつ、改めて奏ってどういう存在だったのだろう…と考える。
彼らのおおらかさに、どこか切ないものを感じている自分もいる。彼らの遊びっぷりを「奏がいなくなった方がお遊びやすいのか」「奏がいなくなったほうがいいのか」みたいに解釈してがっかりするような気分になっている自分がいるのだ。
でも、一方で理性の自分は言う。年上で遊びのテンションが違う奏に一目置いての遊びっぷりと、同世代だけになったときの遊びっぷりが違うことなんて、当然じゃないか。それは別に奏に対する裏切りとか冷たさというわけではない。
当然の「違い」「変化」をどこか「かなしい」感情で受け止める自分がいるところに、「あ、私って何気にペットロスってやつなのかもな」と思った。
毎日泣いたりわめいたるするわけじゃない。仕事が手につかないわけでも、食べられない、眠れない、ということもない。だけど、心のどこかでいつも奏が恋しいし、ときどきそれが純粋な奏への気持ちではなく、自己憐憫や執着の匂いを放つのを感じたりする。いろんなことがめんどくさくなって、ふと、早く奏のいるところに行けないかな、と思ったりする。奏を「逃避」の材料に使おうとしている自分がいる。
でも逃げなきゃいけない現実なんて、ほんとはない。
逃げたくなるのは、自分が作った自分の気持ちから。
しっかりしなくちゃ。猫のように、ちゃんと現実に有機的に寄り添うのがよいな、と思うのである。それが憐憫の目から見て「冷たく」みえたとしても、しーらない。
「猫合宿」で大幅にくつろぐようになったゲスト猫の様子はTwitterの方にアップしています。よかったらご覧あれ。
友人の名古さんは2匹とも黒猫。今の子たちが来る前に渡しといた猫たちも黒猫だったこと、そして今日Twitterやブログで拝見してきた黒猫さんの記事2件を受けて、思わず書いてしまった。
猫の幸せと人間の幸せは同じとは限らない。でも「幸せ」であろうとすることは同じ。悩みながら、気持ちをとらえながら、前に進みたいと思う今日この頃である。