えこひいき日記
2001年1月13日のえこひいき日記
2001.01.13
本日は遠方からの出入りあり。北海道からのクライアントが帰り、福岡からのクライアントが来京。それぞれ遠いところから通っていただいて心苦しい反面、嬉しいし、彼女たちとのレッスンは楽しい。
北海道から来ているT嬢は筋骨化症というきわめて臨床的にまれな病気にかかっており(文字通り、筋肉内に蓄積した疲労物質が骨化して身体の可動域に影響をきたす)、平均的なレベルで言えば、関節の可動(稼動)域はきわめて小さい。私にはその病気を治すことはできないが、しかし自由にならないことはずべて「病気のせい」と一言で片付けられがちな中にも「そうでないもの」があることに着目してレッスンを進めることで、何らかの手助けができるかもしれないと思い、レッスンに来て頂いてかれこれ3年になる。私としてはやるべき事をしているだけなのでその結果を奇跡ともマジックとも思わないが、かつては寝たきりを覚悟したり、車椅子や杖が手放せないだろうと言われていた彼女を知る人たちにとっては、彼女が杖なしで歩いたり段差を上ったりする姿や京都通いは驚きかもしれない。最近では病院での治療にも積極的なうごきがあり、なかなかいい感じである。
しかし真に「いい感じ」なのは、単に痛みがなくなったとか、動かないと思っていた部位が動くようになったとか、そういうことではない。一番すてきなことは、彼女が自分の生活に対してクリエイティヴであることである。動ける範囲が広がり、身体が楽になっていくことを単に「やれやれ、よかった」で「おしまい」にするのではなく、不可能と思われていたことが結構可能かも、とわかってきたところから、自分の持てる能力の使い方を考え、試し、楽しみを見出す、そういうセンスを持っている彼女だから、すてきなのだ。そうであってはじめて、レッスンでの身体的可動域の拡大はその人の可能性の拡大につながると思っている。たしかに彼女の身体的可動域は一般的平均と比較すれば小さいかもしれないが、彼女ほど自分の可動域を可能性に変えて使いこなしてくれている人はいない思う。
私はそういうのにわくわくしてしまう。仕事をやっててよかったと思う。
くしくも、入れ違いに今日いらした福岡のMさんが経営するフィットネススタジオ「スタディオ・パラディソ」の『パラディソ通信』に私が書かせていただいた文章(「らく」と「たのしさ」の相違がテーマ)があるのだが、私はその中にこう書いた。
『何かを「する」から、人は疲れるのではない。「楽しさ」と、消耗するエネルギーの量や疲労感の多少とは、実は関係がない。問題はその行為に自分がどのように関われるかなのだ。でなければスポーツやダンスが快楽になるわけがない。本当に人を疲れさせるのは、ただ「終わる」のを「待っているしかない」ことではないだろうか。だから人は何かをしたくなる。自分が「していること」と「している自分」を実感できることを、エネルギーを費やしてもしたくなる。それは疲れるかもしれないけれど、「楽しい」ことなのだ。』
T嬢やMさんをみていて、やはり私はそう思ってしまうのだった。