えこひいき日記

2001年1月24日のえこひいき日記

2001.01.24

私はアーティストをえこひいきする人間であると、自認している。ただし、ここでいう「アーティスト」はダンスや音楽や絵や陶芸などをしている、いわゆる「芸術家」という意味ではない。アート関係の人間でも、まったくクリエイティヴでもアーティスティックでもない人間はいる。そういう人間は、どちらかというと、すまんが、あんまり好きじゃない。その一方で、ダンスなんかしてなくても、演劇に興味がなくても、アーティスティックでクリエイティヴな人間はいる。

そういいつつ、いわゆるアーティストもやはり好きなんである。最近、音楽の持つちからを改めて感じたりしているところ。2年前くらいからだろうか、ミュージシャンとの仕事が増え始めたこともるが、伏線になっているのはカーネギー・ホールでヨー・ヨー・マの演奏をまじかで観ることができた、という体験だと思っている。あれは私の音楽観を根底から揺さぶる体験だった。
それまで、音楽の演奏は、その技術を持った音楽家という、いわば私とは別の人種の「作業」(しわざ)という思いがどこかにあった(あったことにすら気がついていなかったが)。「音」さえ聞こえれば姿の見えない天井桟敷でもいいや、などとも思っていた。もちろん、それでも音楽は「鑑賞」できる。しかし「体験」するには足りない。音楽を演奏するということ、音楽を生み出すということは、人間の「いのち」の表現の一つなんだわ、と(考えてみれば当然なのだが)まざまざと思い至ったのは、恥ずかしながらそのときがはじめてだった。

アーティストとレッスンをしていて、ときどき驚くことがある。

レッスンの中では、例えばクライアントがミュージシャンである場合、楽器持参できてもらって演奏してもらったりすることもあるのだが、そのとき私はオーディエンスではなくアレクサンダー教師なので、そのアーティストが「どんな音を出すか」よりも「どのようなからだの使い方をしたときにどんな音が生まれるのか」をみている。だから、どんなに高度な技術を持った音楽家が目の前にきても、その妙技に酔いしれるのではなく、本人も気がついていない「音」と「からだ」の関係を読み解き、本人がどのようなことをしたいのかをクリアにしていく手助けをすることが私の「仕事」なわけである。
私がしていることは、音楽的なアドバイスというよりも、ひたすら「からだの使い方」に関することである。余分な緊張や力の抜けすぎをやめたときにどんな音が生まれるのか、「ためしに」やってみることである。いわゆる音楽のレッスンでは、本番ではなく「レッスン」といえど「音」が重視されるが、ここではそれを問わない。盲目的に「やっちゃいけない」とタブー視していたことも、盲目的に「こうするもの」だと信頼していたことも、なぜそうなのか、「あえて」「ためしに」やってみる。そうすることで自分のふるまいやテクニックに納得のいく信頼を培っていってもらい、自分自身のしていることをもっとよく知ってもらうのである。みなさん、自分の「できないこと」はよくご存知なんだけれど、あたりまえに「できている」ことがどうして「できる」のかは全くといっていいほどご存知ないことが多い。それでは情報として不完全だし、自分を攻め立てることでしか上達できないなんて(それが本人の好みなら仕方ないけど)、つまらない。

そうやって、ひたすら「からだ」の余分な動作を省いていっているだけなのに、どうしようもなく、音楽がこちらに聴こえてくることがある。オーディエンスとして聴こうとしている訳ではない。否応なく「はいってくる」のだ。耳慣れていたはずの曲でも「ええ?!これってこういう曲だったんだ!」と突然「聴こえて」くることがある。りきんで伝えようとしなくても、歌詞の内容が入ってくる。そんなふうに不意打ちを食らって、レッスン中なのになんだか感動して泣きそうになってしまったことが何度もある。クライアントと2人でぼーぜんとしてしまったことも、何度もある。

あれって、なんなんだろう?何が起こっているんだろう?「表現」って、そもそもなんなんだろう?

そのような変化が、小さな室内で間近でみているから確認できるような、微細なレベルでとどまる変化なのか、それとも大きなホールなどでは増幅されて音楽性の基底部になり観客に伝わるりうるようなものなのか、実験してみたくなって、去年の2月に音楽家対象のワークショップをやったわけなのだけれども。
それで思ったのは、やはりこれは錯覚などではないし、微妙な違いだけれども影響力は小さくない、ということ。からだの内の小さな変化は大きなホールの中で増幅され、からだの使い方一つで音の飛び方、ホールに響く残響、合奏などの場合の相手の音の把握の仕方が変わってしまう。つまり音楽の質が変わってしまうのだ。
だからといって「あれ」がなんなのか、私にはまだわからないし、何回起こっても泣きそうになる。

ともあれ、こうした経験から、こちらのレッスンの心づもりもさらに腹が据わったような気がする。私の仕事は、単なるアーティストの「健康管理」ではない。もちろん、健康は大事だし、余計な負担を身体にかけない、かける必要がないことを教えることも重要な仕事のうちだが、それがゴールなのではなくて、「しなくていい無理」がわかることで、何がしたいのかがみえてくる、そのことが重要な気がするのだ。仮に表現上の問題で一時的に身体に負担をかけるようなことをしなくてはならなくなっても、それが「無理な無理」に陥ることを防ぐことはできるだろうし、第一、「したい無理」もできないなんて、つまらない。

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