えこひいき日記
2001年1月25日のえこひいき日記
2001.01.25
年間トータルすると、多分20件以上はいきなり「アレクサンダーの先生になりたいんですけど」という問い合わせを受ける。なりたいと思うのは自由だし、歓迎だが、問題はなぜそう思うか、というところで、なかには本当に文字通りアレクサンダー教師の資格を取得してもまったくその人の「助け」にならない事情である場合も少なくない。
アレクサンダーの教師資格に限ったことではないが、よろず、資格取得が「助け」にならないパターンというのは、資格を「人生の免罪符」と勘違いしている場合である。本当に向かい合うべき問題は別にあるのに、その問題をクリア(というより「封印」「隠蔽」)するということと、それをそうした問題に対して特定の視点から施術する立場になることとを穿き違えている場合だ。
ただ、それが別に「極悪」な行動というわけではないし、とりあえず、専門技術をもった人間がひとり増えるということで助かり・助けられる面もあるだろうし、自分自身の問題に近いから施術する相手のことを理解しやすいという部分もある。アレクサンダーの「業界」に関して言えば、私にとっても同業者が増えるには悪い気分ではない。
しかし(再びしかし!)、そのままではミイラ取りがミイラになりかねない。相手(クライアントとか患者とか呼ばれる対峙者)と二人して、いつまでもミイラ、お手手を取って地獄巡り、という結果にもなりかねないし、現にそういう事態をいくつも見てきた。もしも相手が単に同情や共感に終わるものではなく、何らかの解決や理解を求めているとしたら、お互いの「地獄」を自転しているだけじゃ助けにならないだろう。
まずは自分の問題に何らかの解決を見出してからでも、資格取得は遅くない。資格の取得は、よろず、「ゴール」ではなく、その向こうに向かうためのただの「パスポート」なのだから。
また、ことに、アレクサンダー・テクニックを「理解」したり「できるようになる」ためにその教師の資格をとる必要は全くない。ここを勘違いしないでもらいたい。「使い方を学ぶ」というのは特定のマニュアルを記憶することに与えられた資格ではないのだ。
例えば、「鍼灸」が「できるようになる」、「カイロプラクティック」の技術を「身に付ける」というのは、「有(施術)資格者になる」ということだが、「アレクサンダー・テクニック」を「身に付ける」「できるようになる」というのは、もっと一人一人の個人的な問題なのだ。
アレクサンダーにおいて、それが「身に付く」というのは、自分が暗黙に「あたりまえ」に思っていた過剰な負担のかけ方や気がつくことができ、その「負担のかけ方」にストップをかけられるようになるということ(これをアレクサンダー用語で「inhibition:抑制」という。とても大事なアレクサンダー・テクニックの「核」である)だし、そうして得たことをそれぞれ自分の生活の中に「活かす」「使う」こと…ミュージシャンなら音楽の演奏に、ダンサーならダンスに、主婦なら家事の所作に、医師ならその仕事をする自分の仕方に…が「できるようになる」ということである。資格にこだわるより、そういう「活かし方」のほうがずっと有意義な場合が多いような気がする。
アレクサンダー教師とは、「アレクサンダー・テクニック」を「アレクサンダー・テクニックを教える」ことに「使う」ことのできる人間のことを言う。人生に関しては教師だってstill gose onなのだ。
そのあたりを理解してエンジョイしてくれると嬉しい。