えこひいき日記
2001年1月30日のえこひいき日記
2001.01.30
私たちは生き物しか食べられない。お肉食べる人でも菜食主義者でも生き物を食べて生きていることには変わりがない。
いきなりこんな風に書くと、ショックだろうか。
ものごとは、見る角度によって様相が変わる。
スーパーの鮮魚コーナーや精肉店、八百屋さんで「新鮮!」と言われると「あら、おししそう」と思ってしまうが、角度を変えれば「さっきまで生きてた」「殺したて」ってことだもんね。
いじわるでこんなことを書いているのではない。でも、このように書くと「気持ちわるっ」と感じる人がいることは想像できるんで、先に言っておく。ごめん、あなたを不快にしたくて言ったことじゃないの。でも、もしも、少なからず「気持ち悪い」って思ったとしたら、ではあなたはその寸前までどんな気持ちで食べ物を食べていたのかを少し思い出してみて欲しい。思い出せるかな?記憶にあるかな?少なくとも、今の気持ちとは違う気持ちで同じ物を食べてこれたんだよね。それって、あなたにとって、なんだったのだろう?
ここで重要なのは、あなたがなにをみていたかではなくて(それは今も以前も変わっていない)、あたりまえのように(つまり、それが唯一の現実であるかのように)、「どの角度」に立ってそれをみていたのか、ということである。
「日常的」と言われていることって、「経験回数」は豊富なのに「体験」されていないことが多い。私たちは誰しもある意味で、「記憶喪失者」だと言えるだろう。響きはコワそうだけれども、けして異常な現象などではない。ただ、それに気がついているかどうか、その角度からものごとをみたことがあるかないかの違いだけだ。別に「あたりまえ」に対する「記憶喪失」でも生きていけるから、いいといえばいいのだけれど、私は仕事上、その「記憶にない日常」にトラブルの原因や痛みの原因、改善のポイントがあると判断された場合に、相手の「記憶なき日常」の世界に踏み込んでいくことになる。仕事でなかったらただのおせっかいでしかないことかもしれない。
アレクサンダーのレッスンでもフローテーション・タンクのセッションでも、「記憶にない私の日常」「自分が(実は、すでに)体験していることを体験してみる」という点では、共通している。
そういう観点から私のところでは、タンク・セッション希望者にもアレクサンダー・レッスンをお勧めすることが多い。「いま」の見方がわからないと、仮に何かを体験しても、自分が何を体験しているのかを認識できないまま、ある固定観念にはまったまま、「なにもおこらなかった」としか言えないことになってしまったりするからだ。タンク・セッション希望者の中にはばりばり「とぶ」ことに照準をあわせすぎて(「オルタード・ステイツ」とか「臨死体験」とか「幽体離脱」とか、みすぎやね)、かえってコケる人が多いような気がする。コケるのもそちらのご自由といえばそうなんだけれども、こちらから見れば足元もみずにやたら「とぼう」としすぎて、それ以外はみんな「とべてない」(何もおこっていない)という判断に陥るからそういうことになる。それは日常から離れた「別世界」とか「別次元」などではなく、これもまた深く広き「日常」世界なのである。ただ、恐らく、あなたが「日常」だと思ってきたことが「日常」のほんの一部でしかなかったという、それだけのことである。
生死の問題って、実はとても身近で日常的なのだ。毎日の食事が生死の問題だし、例えばテレビをつければすぐ聞こえてきそうな「古い角質を取ってお肌つるつる!」などというキャッチコピーは言い換えれば「適当なところであなたの細胞には速やかに死んでもらってね」ということだ。きちんと死ななければ、生きていることすら続けられない、それが「新陳代謝」と呼ばれたりする、われわれの「生」の姿の一つでもある。
夜中に見る真昼のようなコンビニの明かり。街中で仕事をしていると、コンビニ依存率は高くなる。私もそうした人間のひとりで、コンビニに立ち寄るのが楽しみでさえあるのだが、ある瞬間ふと、奇妙な感覚に襲われるときがある。
ココ ハ ドコ?ワタシ ハ ダレ?
さっきまであったことが今も続いていて、今あることはこれから先も変わらないような、この空間。洗剤も靴下もごみ袋も食料品も「おなじ」に売られているこの空間。本来「それぞれ」であるはずのものの存在が均一化され、相殺され、イコール・ゼロに限りなく近いこの世界。こんなにものがあるのに、一瞬「からっぽ」のような気がするのはどうしてなんだろう。死のない世界は生のない世界。
そうか、「便利」ってこういうことなんだ、「便利なだけ」ってこういうことなんだ、と突然思ったりする。
コンビニのごはんが何かおいしくないのは、だからなんだ、と思ったりする。味の問題じゃない。カロリーの問題じゃない。「生きもの」じゃないんだもん。洗剤と一緒だもん。だからといってコンビニが「悪い」とは思わない。コンビニなこと、好きだよ。でも、「便利」で「死なない」だけでは、私はどうやら生きていけそうにない。