えこひいき日記
2001年2月9日のえこひいき日記
2001.02.09
小説や物語を読むのが苦手でノンフィクションしか読めないという書物好きの人がいる。かと思えば、小説は読めるけれども、ノンフィクションや論文は読めない、という人もいる。「好み」の問題の範疇で収まる話しなら他愛もないことだが、物事の認識形式の「過剰な固定化」からくるものだと、若干めんどうであったりもする。
「めんどう」というのは、コミュニケートする際の「認識コード」がお互い違い、なおかつ「違っている」ということに気がついていないことが多いので、気がついて理解可能なものに「翻訳」するまでに、少し手間がかかる、というだけの意味である。
ただ、その「違い」を「間違い」だと間違って認識したり、相手が自分のことを嫌っているとか、優劣の問題などにするかえられちゃうと、ややこしくなってしまう。「伝えたい」「通じ合いたい」という気持ちがかえってお互いの持つ「認識コード」の問題を不問に付してしまい、お互いを隔てることになるなんて、笑うに笑えない、泣くに泣けない悲喜劇だ。
(ただ、「理解」することが目的ではなくて、もどかしさを「表現」することが目的のなら、「わかってくれなーい」と言って暴れるのはタダシイ。目的意識にかなった行動である。恋人同士とか、友達同士とか、仲間内ではよくあることのような気がする。ただしその「表現」は「解決」にはならないんだけどね。
私自身とて、仕事では「身体とその「認識コード」の問題」を扱っているので、クライアントの「認識コード違い」に対しては寛容(?)だが、プライベートではそんな手間をしてまで通じたい相手なんて、ほんの少ししかいないわけで、しかし数の問題ではなく、私にとって大事な人とコミュニケートしたいからこそ、「認識コード」の問題を問題にするのだと思う)
子供の頃、本を読むと「頭がよくなる」とか、本は「知性の象徴」のように、おとなから言われた記憶もあるが、本を山ほど読んでいようが「認識形式」が「過度に固定化」しているという意味で、あたまが「ばかになっている」おとながいっぱいいることは、おとなになってから知った。
最近は本を読む若い人たちの人口が減っているらしいが、じゃ、その人たちは「文字」の使用頻度が低い人たちなのか、というと、そうではなく、携帯のメールやインターネットでは頻繁に「文字」や「絵文字」を使って「意味のかたち」(記号)を造ったり使ったりているし、「326」に代表されるような、イラストと合わせた新しい「意味をかたちにする仕方」(表現形式)を産み出して、共感を寄せたりしている。
好みの問題は一旦おくとして、「文字」に対する一般的な「認識コード」自体が変化してきているのかもしれないな、と思ったりする。昔は、ものごとを、広く、スピーディーに伝えたり保存したり技術や手段が「文字」しかなかった。しかし今では「文字」以外にもいろいろあるし、いろいろ選べる。伝えたい内容によっては「文字」ではなく、例えば写真とか、イラストとか、声とか、ライブで会うとか、選ぶことが可能になってきている。それに伴い、「文字」の「役割」や「扱い」が変化していくのは、自然なことなのかもしれない。
でも、だからこそ、文字というメディアにしかできないことってなんなのか、ということを、まがいなりにもこうして書いている身としては考えたりもするのである。