えこひいき日記

2001年2月22日のえこひいき日記

2001.02.22

私の好きな社会学者でT氏という方がいるのだが、昨晩、彼がテレビに出るというので仰せに背いて(本人は「みるな」とおっしゃっていたのだが)見てしまった。テーマは「安楽死」。オランダで安楽死(本人の意思に基づき苦痛緩和等のために医師が患者の死を「積極的に」助ける行為)を容認する法案が可決されるか、という流れを受けての番組だったようだ。
T氏は番組の中で安楽死、尊厳死を「自殺」「殺人」とおっしゃっていた。その言葉の「音」にどきっとしながらも、なるほど、そうだと思う。どんなにうるわしげな言葉でコーティングしようとも、「積極的に」ある人間が(を)死に向う(向かわせる)ことは「自殺」であり「殺人」である。
ちなみに「消極的な」安楽死というのもある。いわゆる「延命拒否」がそれである。これも以前、NHKの「海外ドキュメンタリー」だったか、番組を見たことがある。アメリカのある病院で、スパゲティ症候群と言われたりするように体中に管をつながれまで延命するのは嫌だという患者の意志に基づき、独自のガイドラインを設定して、医師や病院スタッフが慎重に延命装置をはずすタイミングを考える、という内容だった。医師はけしてはずしたらすぐに死んでしまうようなタイミングを選ばない。ひょっとしたら、自発的に呼吸が再開されるのではないか、というタイミングを慎重に見極めようとする。私が最も感銘を受けたのは、この「延命拒否」は「死ぬ」ための行為ではなく「生きる」ための行為であるところだった。正直に言って、私はそれまで誤解をしていた。「延命拒否」とは「死」に向かう行為のように思っていた。もちろん、死は視野に入ってはいるが、それは「目的」などではなかったことが私にとっては新しい情報であり、その行為に希望のようなものを感じたのを覚えている。

そういう意味で言えば自殺者はすべからく「安楽死」者である。私は直接的、間接的に縁あった人を何人か自殺という形で見送っている。未遂だったひとも何人かいる。彼らが一様に拒否したのは「苦痛」であり、それは生きている限り続く、という判断からの行為だ。それは全く上記の「(積極的)安楽死」と同じである。ただ、いわゆる自殺者は、「積極的に」は他人を巻き込まないところが少し違うだろうか。

死は生きていることと同じに、ふしぎで、あたりまえなことである。生きていない人間はここに存在しないし、死なない人もいない(少なくとも、生物的には)。法的に認められようが認められまいが、他人を巻き込もうが巻き込まないでいようが、自殺も殺人も「やっちゃえる」行為である。これまでもずっとそうだった。多分、これからもそうだ。

ただ、自殺者や殺人者を前にしていつも思うことは、ほんとに死んだり、殺しちゃったりすることでしか、かたがつけられないことなのか、ということである。

私はなぜ、自殺せず、人を殺さず、生きているんだろうと考えることがある。人を殺したいと切実に思ったことはまだないが、死んでくれないかな、と思った人はいるし、自殺についてはさまざま思ったことがある。(このあたりの話は昨10月に私が翻訳した本の著者が自殺した際に、その追悼文の中に書いた。一部の人に配信・配布した文章だが、そのうちホームページにも掲載するかもしれません)

で、結局、私が死ななかったのは、実は私の「目的」は死ではなかったからである。他に「死に方」を学習できたからである。私が「おわり」にしたかったのは、私の生物的な意味での生(命)ではなく、今私が生きている「リアリティ」だった。「今のこの生き方を辞めたい」という意味での「死にたい」であって、生物的なことは、実は別の問題だった。だから「死にたい」のであれば、例えば恋人と別れるとか、仕事を変えるとか、言えなかったことを言えなかった人に言うとか、そういうことをするほうが、手首切ったり首つったりするよりよっぽどよく「死ねる」。そういう「死ぬ」技術を獲得できたから、私はまだ生きていられるんだろうと思う。でなかったら、死んでいた。
「殺したい」というのも同じではないのかな。相手をほんとに殺すまでもなく、「おまえなんかきらいだー」と相手の目を見て叫ぶとか、仕事をやめてもらうとか、見捨てるとか、一発くらいきちんと殴るとか、最低でも「殺したい」ほど相手に関心がある自分を認めるとか、そういうことをしたほうがよっぽど「殺せる」気がする。
一時期17歳の少年の起こした殺人事件が取りざたされたが、私には彼らが「まじめすぎる」ひとのように感じられることがある。自分を取り巻く環境に「いやだ」ということが言えない、言っちゃいけない、と思いすぎていたのではないかと思ったりする。「嫌い」とか「ばか」とかちゃんと思ったり言ったりして、早めにきちんと相手を自分の中で「殺す」技術を獲得するのも生きていくための技術、学習のうち、という気がする。
ただ、「今のこのリアリティ」にはまり込んでいるときには、それを変えることがそれこそ「死ぬよりこわい」し、そんなことするくらいなら「死んだほうがまし」と思っちゃったりするかもしれない。それほど大変なエネルギーを要することであることも、私なりに承知している。
でも、だから大事なんだけれどね。

自殺も含め、死は、生き方の問題だと思う。T氏も番組の中で「安楽に死にたいということは、安楽に生きていきたい、ということだ」というようなことをおっしゃっていた。賛成。
今の私は生きているうちにちゃんと「死んで」、ほんとに死ぬときは「もう生きていくのはおなかいっぱいです。ごちそうさま」と言って死ねたらしあわせだなー、と思う。

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