えこひいき日記

2001年2月25日のえこひいき日記

2001.02.25

春のような日が続いたと思ったら、今日は小雪が舞う。

私は基本的に、動物好きだと思う。今、一緒に暮らしているのは猫だが、実家には犬(柴犬)もいるし、鯉もいる。かつては小鳥もいた。カエルやヘビも好き。あ、でもトカゲは苦手(ごめんよ、トカゲ。君のせいじゃない)。あと、犬の毛にアレルギーがあるので、楽しく遊んだあとは手や顔を洗わなければならないのが手間だが、しかし楽しい。

ここにレッスンにいらっしゃる方の中にも動物好きは大勢いらっしゃる。中には痴呆症者やその介護者、高齢者福祉に動物との触れ合いを取り入れているという福祉関係者もいらっしゃる。
確かに、動物と触れ合うことはヒーリング効果があるなどと言われており、個人的な体験からしてもその効果を否定する気持ちはないが、しかし動物と触れ合いさえすれば癒されるほど、そんな自動的なものではない。一方では「矢猫」「矢鴨」(このネーミング・センスも、どうかなーと思うけどね)のような動物虐待はやまないし、動物好きが高じてやたらと手元に置いた挙句世話が仕切れなくて放り出す、などという事件も結構発生している。
私にはこうした虐待行為が一部の「異常者」によって引き起こされた「特殊な」事態だとは思えないのだ。同じことの、ネガとポジという気がしている。

「猫との暮らしは、理解なき和解」といったのは大島弓子氏である。名言だと思う。少なくとも、私と猫との生活は「理解なき和解」の日々である。
「理解」という言葉は、うっかり使うと「呪い」になる。「わかるはず」から安易にはじまったことは、けっこう容易に「どうしてわからないの!」に変わるものだ。動物と触れ合って癒されるものがあるとしたら、それは「わかってあたりまえ」「同じようにできてあたりまえ」というところからスタートせずにすむからかもしれない。いま目の前にある反応を一つ一つ確かめて、それを受けとめていくことは、単純に喜びである。しかし、いつも、誰にとっても「喜び」でありえるものではない。自分の持ち込んだ「コード」が理解・共有されない寂しさが勝ってしまったら、相手の存在を否定しにかかるかもしれない。ネガとポジ、というのはそういうことである。

私と同居の猫は、アメリカら一緒に帰国した猫である。私と暮らす前は、あるおばあさんの猫だった。彼女はアメリカ人だったから、私と暮らし始めたときには「日本語」というへんな「音」を出す人間との暮らしに、さぞ戸惑っただろうと思う。ときどきこちらを見ては、変な顔をしていたりした。このこが非常に好奇心が強く、サバイバル向きだったので、同居生活はかなりスムーズにスタートしたのだが、日本に帰ってくるときは迷った。今度の引越し先は日本。猫にしてみれば、最低でも2回目の引越し、しかも飛行機に13時間乗っての引越しである。私はものすごく迷った。が、最終的に「私が」猫と離れて暮らすという選択肢を拒否した。猫の「要望」を無視して決めたつもりはない。しかしそれとてあくまで「私が」そう思ったことである。このときは言葉を使って意思確認ができないことを歯がゆく思った。(かといって、言葉がそれほど決定打になるとも思っていないが)

昨日の仲良しも、昨日のバトルも、今日を保証してはくれないから、私は毎日猫に話しかける。言葉(音声言語)で、ではなく、言葉と共に手で、目で、立ち方で、話しかける。私はそうした「ことば」しかもちえないからだ。猫は毎日私にすりすりをして、匂いをかぎ、私を確認する。毎日、あいしているよ、と伝える。そして一日一日「今日」が重なって、猫との暮らしは6年になる。どの一日を飛ばしても、今日はなかったのだと、思ったりする。あたりまえの、一期一会の日々である。

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