えこひいき日記

2001年3月7日のえこひいき日記

2001.03.07

私は自分の仕事内容を「リラクゼーション」とか「癒し」だと考えたことは一度もない。ただ、「リラックス」とか「癒され」(?)というのは相対的かつ変動相場的な「状況」だから、ひとによってはそういうことになるんだろうなあ、と思うのだが、こちらとしては積極的に「リラックスしてほしい」とか「癒されてほしい」などと思って仕事をしたことは一度もない。
ただ、「そんなにあわてんでも…」とか「いそがんでも…」と思うことはある。「いそがない」ことが「リラックス」なのかどうかはわからないし、本質的には別物のような気がするんだが、ひとによっては同じなのかもしれない。それに本人も自分のしている行為が「いそぎすぎ」とは思っていないことも多いし。ともあれ、必ずしも今までと同じやり方をしなくてもその人が達成したいことは達成できそうだぞ、という判断に至った場合、本人にもそう伝えるし、「あせらない」「あわてない」方法でやってみるとどうなるかを実際に「実験」してみてもらう、ということはする。(それが「レッスン」なんだけれど)
今までの経験から言うと、ほとんどすべてのクライアントのお悩みの原因は「目的の達成に合わない手段の選び方」としての「あせりすぎ」であって「ゆっくりしすぎ」という人はいない。一見ゆっくりしているように見える人でも、それはものすごい力で自分を押さえ込んでいる結果だったりすることもある。

したいことはする、したくないこと、する必要のないことはできるだけしない。それを具体化する方法を考える。レッスンなんて、それだけのことなんだよな。

そもそも「リラクゼーション」とか「癒し」ってなぜ流行り言葉になっちゃったのでしたっけ。
この言葉を魅力的に感じるとき、そこには何を感じているのだろう。

ちょうど真逆の言葉になるのかもしれないけれど、私のクライアントのひとりに「ストレス」という単語を連発する年配の女性がいる。「これって、ストレスが原因ですよね」「やっぱりストレスはよくないですよね」「こういうのもストレスになりますよね」という具合に。
彼女の発音する「ストレス」はけして同じものごとについてではなく、さまざまな色合い、さまざまなシチュエーションに彩られているのだが、ひとつひとつの状況は違ってもすべてに共通しているのは「自分から積極的に望んだものに対して感じられることが多く、なおかつそれは変えがたいことだと(彼女が)思っていること」という点である。
彼女の「ストレス」とは「変えがたさ」なのである。「行為」そのものではない。元来働き者である彼女は、家の仕事を手伝い、母親をし、おばあちゃんをする。仕事は際限なくあり、しかし家族の中のことなので、感謝されることも少ない。しかしそれは彼女の「苦労」であると同時に、「やりがい」でもあるものだ。だから、忙しく立ち働くのをやめれば彼女は「癒される」のかというと、そうではなく、むしろ彼女の望みは働くことであり、続けたいのだ。ただ、「そのやり方」があまりにも変わらないものだと、窒息しちゃうのだ。絶望しちゃうのだ。気分的な意味だけでなく、本当に身体はこわばり、余計な力が入りっぱなしになってしまう。それがまた新たな絶望感を呼んだりする。はまっちゃうのだ。
私の仕事は、今のやり方(「はまる」)ことだけが「その現実を生き抜く打開策」かどうか、いろいろ試してみることである。気がついちゃえば他愛のないことが多いのだけど、見えないときは永遠に見つからないようなことばかりかも知れない。
ともあれ、彼女は自分なりの「変えがたさ」への「打開策」を身に付けつつある。以前は一度偏頭痛が起こると数日は寝込まなければならなかったが、今は痛むことがあっても自分なりに理由や原因が分析できるし、寝込まなくても済むし、形成外科医から「なおらない」などと言われた首のゆがみもなくなってきた。
したいことはする、したくないこと、する必要のないことはできるだけしない。それを具体化する方法を考える。それだけのことなんだけど、ちょっと毎日が楽しくなっちゃったりするみたいで、嬉しい。

ところで彼女はここのレッスンのことを「治療」って言うんだけど、私は「治してる」つもりは全然ないんだよな。でも「変えがたい(と思っていた)」ことが「変わる」のは彼女にとって「治る」ってことみたいだし、まあ、消極的に、許す。

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