えこひいき日記

2001年4月12日のえこひいき日記

2001.04.12

もう1週間くらい前の話になるけれども、小学校の算数の教科書で円周率を「3」と記載する、などというニュースが流れたのはまだ記憶に新しいことだと思う。私はテレビでそのニュースを見たのだが、思わずテレビに「おいおい」と突っ込んでしまった。「3.14」と「3」の数値的な差が「0.14」だから「些細なこと」で、そういう簡略化が「ゆとりの教育」につながると、本気で考えているんだったらすごくカナシイと思う。これぞ暗記教育の賜物。暗記教育への復讐で思いついたとしか思えないアイデア。

私はあまり学校のことをこまごま覚えていない。学校の名前くらいは思い出せるが、担任が誰だったとか、何組だったとか、クラスメートとか、ほとんど覚えていない。もちろん今でも交流が続いている友人もいるが、その一方で、たまーに誰かの結婚式や街で「同級生」とおっしゃる方に声をかけられることがあるのだが、申し訳ないが、ほとんど覚えていることがない。
あれほどテスト前にノートとにらめっこしていたのに、学校で教わったこと(「暗記したこと」)もほとんど覚えていない。だいたい苦痛だったし。高校2年くらいに頃だったが「本当に学校でやっていることは学問につながるもののか」と真剣に悩んだこともあった。だって、例えば「〇〇学者」という人たちの著書やそこに書かれている研究活動はとても魅力的に思えるのに、「それ」と自分が受けている「これ(学校教育のお勉強)」とがつながっているとはどうしても思えなかったのだ。教師にそのような質問をしても「逃げ」ととられるだけだったし、まともに答えてくれる人はいなかった。

でも、覚えていることもある。その一つが、高校の歴史の先生の授業。この先生がものずごいローマ史好きで、教科書に書いてあること以上の内容と時間をかけて授業をしたので、後のほうの内容は補講の時間が組まれたほどだった。他の授業のことは、内容も授業風景も、切れ切れで数コマのみのピンぼけ画像でしか思い出せないけれど、この授業だけは、ところどころだが、きちんとした「動画」で思い出せる。先生の表情もイキイキしていた。高校の世界史の授業としては、内容も時間もオーバーランなものだったが、一つのものを突きつめる楽しさ、のようなものを間接的に習ったような気がする。それは、ちょっと大げさかもしれないけれど、「生きていくための勇気」につながるようなものだった気がする。

学校で教わることは、知識そのものもそうだけれど、それを通しての「世界観」のようなものも、教育のうちという気がする。円周率「3.14」を習って、私はこどもながらに「はっきりとしたかたちがあるのに、割りきれない(という意味で、わからないもの」の存在を知ったし、感覚の世界だけでなく、数字の世界にも「無限」が存在することを知った。だからどうだというものでもないけれど、それが「わかる」ことの快感のはじめだったような気もする。そういうことに対して費やす労力は、大きくてもそれほど苦痛ではなく、愉しみ、と呼んでもよい気がする。
結局、何を習うか、より、どう教わるか、なんだよな。あたりまえだけれど、人間が人間に向かい合ってるんだもんね。

私のところにも、この教育改革の一環(体育も「こころとからだのつながりを教える時間」に変わるらしい)で、大学の研究費でレッスンを受けに来る方々がいらっしゃる。とはいえ、私が相手にしているのは来てくれた人個人なので、その人が自分の体験を通して何を感じ、考え、そして「どうすればよいか」ではなく、「これまで実は何をしてきたのか」を知ることを通して「何がしたいか」を考えることで、体育の授業を考えてもらう、ということになる。
『女子体育』という雑誌にもそれに関連した原稿を書いたりしたんでここでは繰り返さないけれど、ともかく「ゆとり」は量的な問題から生まれるのではなく、内容的なもので、「すること」を減らすことが「ゆとり」だとはさらさら思えないんだよねー。逆みたいだけど、自発的探究心をあおる授業が「ゆとり」を生むと思ったりする次第。

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