えこひいき日記

2001年5月9日のえこひいき日記

2001.05.09

外に出てみると、夏であった。びっくりした。もう「初夏」と呼べる季節にしっかり入っていたのですねえ。暖かいのは寒いよりなんとなく気分がよい。窓に差し込む光の角度が変わると、部屋の中も違って見える。

部屋の中といえば、がさがさと資料や書類を探していて、そのまま関係ない書類を読んで遊んでしまうことがあるのだが、今日も以前スクラップした切り抜きの中に精神科医がインテリアや家について話していたインタビュー記事があったなーなどと思いながら書棚を引っ掻き回していたら関係ないインテリア記事まで読んでしまった。

うまくいえないのだが、最近「もののかたち」が気になってきている。「ユニバーサル・デザイン」という言葉が雑誌やテレビ画面に踊ることも少なくなくなってきたが、あらゆる「プロフェッショナリズム」は「ユニバーサリズム」を含むと思っているので、それを「かたち」(もの)で提供する仕事には興味がある。

ちなみに「ユニバーサル」とは、広辞苑によると「宇宙的。世界的。普遍的。」とある。そして「普遍」とは「あまねくゆきわたること。すべてのものに共通に存すること」(by広辞苑)とあるのだが、普遍性とは「平均」とか「多数決で多いほう」とは似て非なるものだとも思っている。だが、けっこう誤解されていることも少なくないかもしれない。
同様に、「バリアフリー」という言葉も誤解されやすい言葉だと思う。単に段差を無くすとか、床をまったいらにしちゃうことがそれなのではなく、「バリア」(個の輪郭とか、区別、識別という意味で)の機能をきちんと生かしてこその「バリアフリー」という気がするのだ。
きちんとした「バリア」は「ユニバーサル」にも通じると思っている。
生活のリズムとか、ある職業につくことも、その人の中の一種の「ユニバーサルネス」だと思うのだが(毎日それを繰り返せる、ということはそれなりの普遍性がある)、例えば私の仕事でいうと、「その人ひとりひとりに合った対応をすること」が仕事における「ユニバーサルネス」なんであり、「誰にでも同一の対応をすること」は必ずしも「ユニバーサル」ではない。むしろ「個」(一種の「バリア」ともいえるか)に対応できなくなったときに仕事や職業としては存在意義(普遍性)を失うことになる。
逆にいえば、ある職業が「職業」として成立するには、その行為やその継続に普遍性が存在しなければ「職業」とは呼べないのかもしれない。つまり「やりたいときだけやる」とか「好きな人だけ相手にする」というのではなく「どのような人(時?)にも(ある程度)」対応できる「ユニバーサルネス」が自分の中になければ、「プロ」とは呼べないだろうし、やっててもつらいかもしれない。
この仕事を始めたときに、どういう人たちに門戸を開くべきか、ということを自分自身の適性も含めて、考えたことがあった。例えば自分自身と同じ経験をしてきた人とか、お友達など、いわゆる「気の合う」ひとたちだけ相手にしたら「らく」だろうなー、などとも考えた。しかし考えてみれば、そうした人たちとは「仕事」でなくても出会える。「仕事」でしか出会えなかった人たちと出会えることこそ、仕事の「たのしみ」だと思い直した。もちろんその中には個人的には「気の合わない」ひともいるわけだが、「気が合わない」ことは「理解できない」とか「コミュニケーションができない」いうことではないし、好き・嫌いで反応しなくてもよい場(という意味での「ユニバーサル」な場)を持てることは、私にとって「わたし」の発見の場でもあり、すごく面白い。

こんなことをつらつら考えてしまうのも、先日東京に行ったときに、もはや「お約束」になっているコンランショップ見学に行ったときのことがあるのかもしれない。
ちょうどゴールデンウィークということでか、ビル全体で「クラフトフェア」というのが開催されていた。さまざまなジャンルの新進作家さんたちが自分の作品を展示販売していたのである。こういう催しの楽しいところは、作家さんに直接お会いでき、作品のことなどを聞ける事だ。でも、中にはそのことが見る側としてもつらいこともある。
どの作品も、観ていて楽しい。手を抜いた作品なんて、一つもない。しかし、欲しい、と思う作品は驚くほどわずかなのだ。新進作家の作品ということで、セレクトショップに並んでいる作品よりもお値段もずっとリーズナブルだし、はっきり言って安いと思う。でも、そうであっても「欲しい」とまで思えるものはほんの少しなのである。そのことに我ながら少し呆然としてしまった。コンランショップ内を歩いているときと「欲望のかきたてられ度」がまるで違うのだ。そんなことを考えながら作家さんの前を通り過ぎるのはすこし辛い。コンランショップに並んでいるものたちと何が違うのだろう。「それがプロとアマの違い」と言ってしまうのは簡単だし、「違う」ことはわかる。でも違いをうまく表現することは今の私にはできない。私は何を基準に「欲しい」とか「欲しくない」とか思っているのだろう、と思う。そこには先に書いた「ユニバーサルネス」が絡んでいる気がするんだが、まだ自分の中で整理がつかない。

でもクラフト市ではひとつだけ、どうしても欲しいものがあって、買ってしまった。それはコーヒー豆のような形をした花器である。ほんとうは、その作家さんのアミガサタケのような花器が欲しかったのだが、巨大すぎて京都に持って帰る自信がなかった。また、今の部屋の間取りではその存在感を生かしきれないので、泣く泣く断念した。
今、購入した花器には芍薬の花が生けられている。この花器の存在感に合う花をあれこれ考え、お花屋さんに相談に乗ってもらった挙句、白い芍薬を選んだ。花はゆっくりゆっくりとその花びらを広げていっている。
花を選ぶ愉しみ、花を考える愉しみをその花器はくれた。そういう「生活」を花器がくれたのだ。
うつくしいものの「かたち」の真価はそのようなところにもある、と思ってしまう。

カテゴリー

月別アーカイブ