えこひいき日記

2001年6月10日のえこひいき日記

2001.06.10

だいぶ間が空いてしまった。

先日の池田小学校の事件では、自分でも驚くくらいショックを受けてしまった。小学校1年とか2年という小さな子供たちが8人も殺害されるなんて、やはりひどすぎる。

ある研究会で「『わたし』とは何か」という話になったことがあった。私はその回には出席していなかったのだが、後日その顛末を聞いて、別の人と話し込んだことがある。だからここに書くことは「研究会での発言」というより「その後」に「研究会でこんな話がでたよ」という話題につらなって出てきたことの内容なんだが、その内容というのは、例えばこういうことである。
「わたし」は物質的には「この皮膚に包まれたひとり分の肉体」なのだが、意味的にはそれとは限らない。例えば、同じ会社、同じクラス、同じ国籍等、何らかの共通要素で結ばれた複数の人間を自分自身も含めて「わたしたち」と呼ぶことがある。それは「わたしとあなた」ではなく「わたしたち」という「わたし」なのである。そういう意味で自分が共感できるものは「わたし」と呼べるものなのかもしれない。
しかしただ共通要素だけ提示されても「あなた」のことを「わたくしごと」(わたしの問題)として捉えられるわけではない。「人類」を「わたし」の問題として考えられるかというと、にわかには難しいかもしれないし、会社とかにしてもそうだし、同窓会で盛り上がれる人間もいるけれどそれが違和感に思える人もいる。「おなじ」要素があるからこそ高まる違和感もある。家族の問題もそういうところに根ざすものは少なくないと思う。
これらのことは、相対することとして存在しているのではない。全く同時にひとりの人間の中に存在するもので、ただシチュエーションによって「どちらがより前に出るか」だけの差なのだと思う。

私自身が小学生でもなく、小学生の子供を持っているわけでもないが、ニュースを見て立っていられなくなるほどのショックを受けたのは、なんらかのかたちで「わたし」の問題だと感じたからかもしれない。

私が「わたしの問題」として捉えたのは被害者のほうではない。主に加害者のほうだ。
この事件が起こる前から多発する電車内暴力(ちょっとして注意が言葉の示す分量を超えて相手にとらえられてしまう)とか、通り魔的に人を刺してしまうような「だれでもよかった」殺人が報じられていたが、私はそれを「自己/他者の混同」あるいは「部分否定/全否定の混同」に根ざす問題だと思っている。ほんとは「だれでも」なんかではない。本当は、特定の誰かに向かっている思いのはずだ。でもその人物にはその機会に向かい合い損ねたのだ。だから「みがわり」を探す。「だれでも」(「いつでも」)などという。
「だれでもよかった」などと言っても現実に被害にあうのは現実に生きている人間で、私の「わたし」に対して「あなた」にあたるひとりの人間だ。しかし往々としてこういうタイプの殺人者は、殺すその場に際してもなお、相手を「あなた」とは認識していない。だから殺しても、その行為がわかっていないだろうし、だから満足もしないし、終わらせることもできない。
私は、そういう「殺され」方はたまらない。戦争や大量無差別テロの悲惨さは、たくさんの命が失われることでもあるけれど、ほんとうにやりきれないのは「わたし」が無視されたままに、大勢の、一人一人の「私」が殺されることだと思う。私でなくてもいいのに私だなんて、へんな言い方だけど、すごく「がっかり」する。こんな無神経な行為、ないと思う。

殺す、殺されるなどと穏やかではないが、生物的な生き死にの問題ではなく、それを広義に「相手(自分)の言動や存在を否定する(される)こと」とし、その場もまた広く「相手との向かい合いの場」だと捉えるなら、日常の生活にもあるシーンだと思う。(そしてこういうシーンでちゃんと「殺し」たり「殺され」たりしてないから、ほんとに殺しちゃうんだな)
レッスンの中でも、「過去に言うべき人に言うべきことを言っていない」せいでよく似たシチュエーションになったときに「過去」に対して反応してしまい、今できることをやりそびれて、「過去」の分量を増やしてしまう問題にはよく出くわす。だから、私にとってこれらの事件は「たにんごと」ではないのだ。

私は、「殺される」なら私でなければならない理由で「殺され」たい。もしも私がひとを「殺す」なら、その人でなければならない理由で「殺す」。

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