えこひいき日記
2001年7月14日のえこひいき日記
2001.07.14
昨日は4月に続き今年2度目の「13日の金曜日」であったが、やはりジェイソン君がやってくることもなく、一応平和であった。
ジェイソン君こそやってこなかったが、暑さもたけなわのせいか、いわゆる「怪奇・ホラー特集」(心霊写真とか、心霊スポットとか)の特集が多くなったように思う。
私はあまりそういう特集が好きではない。「怖い」からというのではない(怖いけど)。なんというか、ちょっと失礼な気がするというか、無神経な気がするときがあるのだ。自分の「常識」や「経験識」で推し量れないものを単に「怖い」としか感じられず、それを一方的に言い募ることしか出来ない感受性を、なんだかさびしーと思ってしまうのかもしれない。
小さい子供が「しらないひと」を見て「こわいー」と言うことがあるが、これは「その人」が「こわい」のではなく「しらない」ということを「こわい」と言っているのだ。クライアントさんのお子さんで、匂いを感じるとそれが「いい匂い」でも「嫌な臭い」でも「くさい」と表現してしまう子供がいるが、それと同じで、ボキャブラリーとカテゴライジングの問題なのだろう。おとなだって外国に行ったり、慣れないことをしなくてはいけないときに「こわい」と感じることはあるが、具体的な対処の仕方などがみえてくると「こわ」くはなくなる。それを「慣れる」とも表現するが、わたし的にはそれは時間や回数の問題ではなくて、「自分の体験」として受け止められるかの問題だと思う。
クライアントさんの中にはいわゆる「霊感」の強い人もいて、私の事務所が京都のど真ん中というだけで一瞬レッスンに来ることをためらったという人もいる。確かに京都のような古い土地では現在生きている人間の数より死んでいる人間の数のほうが多い。なんかの拍子に死んでいる人が見えてしまったら、目の前の人口は一気に膨れ上がることになる。
しかし、自分に縁のある人など、ほんの少しなのだ。今地球上に生きている人間が何億人であろうと、いくら高速通信網が整備されたとしても、それは変わらない。ただ、ひとりの人間が向かい合える人間が数的に少しでも、きちんと向かい合うことが出来たら、自分が向かい合った人もまた、誰か別の人に対して向き合う関係を作っていくだろう。そういうことを通して多分、コミュニティーとか国とか社会という単位の(で)人間は「間接的に」つながっていくのだと思う。「直接的に」ではなく、「間接的に」である。
「直接」と「間接」の見分けがつかなくなると、少し苦しいことになることもあって、例えば対人恐怖感を覚える人が交差点の横断歩道を渡るのが「こわい」と訴えてくることがあるが、どうしてかと聞くと、全員が「自分に」向かって歩いてくるような気がして身がすくむのだという。「自分のいる方向に」というのと「自分に」というのでは、全く違うし、本当に全員が「自分に」向かって突進してきたら誰だって相当怖い。レッスンの中では、じゃ、自分は交差点を渡るときに「どこに」向かっていたのかな…などということを考え、自分の歩き方などを検討してみることで自分自身の動きと周りへの反応の関係を考えたりする。たいてい「自分の動き」ができるようになると、ひとはやたらな対外恐怖感を覚えなくなる。
話が右往左往するが、その霊感の強いクライアントは「見えている霊」がすべて「自分に関係のある霊」であるわけではない、ことがわかってきて、過剰反応しなくなったみたいである。
ま、まず、人のことより自分のこと、ですよね。