えこひいき日記

2001年9月13日のえこひいき日記

2001.09.13

最も安否が気遣われていた金融関係の仕事の従事しているスイス人の友人が無事であることが今朝確認できた。一気にからだからが抜ける。しかしまだわからない人もいるし、何千人もの人があの瓦礫の下にいるという。もう何十回と流されている映像。しかし見るたびに涙が出る。

私はブッシュ大統領のコメントを聞いていて、恐ろしくなった。さすが「スーパーマン」や「ロッキー」の国というべきなのだろうか、自分を「正義のヒーロー」にすることがよほど好きらしい。しかし、かっこいい「ヒーロー」とは時に無神経で、無理解なやつでもある。
どのような恐ろしい行為でも、それを行うにはそれなりの大義名分が必要だ。それはテロリストの側も同じである。彼らは自分たちの行いを何らかの形で「正義」だと思っているはずだ。つまり立場が違うだけで、アメリカもテロリストも同じことを言っているのだ。まだ反抗を行った組織なり人物なりが誰なのか、特定はされていないが、アメリカが「テレリストをかくまう国も(テロリストと)区別しない」と反撃声明を出したように、その「テロリスト」を「アメリカ」に入れ替えればそっくり相手の言い分になってしまう。
アメリカが自分を「大国」でいさせ続けるために行ってきた軍事介入、はたまた都合が悪くなると議会をボイコットしたりという行為、これは言っちゃ悪いが「子供じみた正義」だ。企業も巨大化路線からSOHOというワーキングスタイルに移行してきたように、生産スタイルが「どんどん作ってどんどん消費」から「必要なものは作るけれどリサイクルもする」というスタイルに移行し始めたように、国家もまた、そのスタイルを変えるべき時期なのかもしれない。ソビエトが崩壊した今、アメリカが「大国」でいる理由はそれほどない。
だが現状から見て、ブッシュ大統領がそれに自ら踏み切ることは期待できそうにない。であれば、それを提言するのは「当事者でないものの役目」なのかもしれない。司会とか、カウンセラーと同じだ。「当事者でない」から「関係ない」とか、「考えないでよい」のではなく、当事者でないものにしか思いつけないことがあると、私は(仕事柄か)思うんだけど。どうせなら、小泉さん、一つ改革の一環としてがんばってみてくださらないかなあ。

ところでラディン氏の名が取りざたされて以来、アメリカ国内でイスラム教徒に対する襲撃事件が続発しているそうである。国をあげてテロ行為を非難しながら、これこそ「アメリカ」というだけで無差別テロを行うテロリストと同じ行為であると、どうして気がつかないんだろう。愚かなことだ。そういうかたちでアイデンティティを踏みにじられる悲しさや怒りはわかっているはずなのに。

私が日本に帰ってきた年は、ちょうどオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった年だった。この報道が流れた直後、模倣犯を警戒したニューヨークの地下鉄は厳戒態勢に入った。当然、空港でのチェックも厳しく「日本人」というだけで「オウム」、つまり「テロリスト(かもしれない)」という扱いを受けた。心外である驚き以上に、そうみなされる「見方」が存在することに、ショックと、納得とを、同時に受けた。誤解を恐れずにあえて言うなら、「私も「オウム」なんだ」と思ったのだ。つまり、そういう事態のさなかであればこそとはいえ、「外国人」が「日本人」を見たら「オウム」と思え、と身構えているように、私の中にも「私はオウム信者じゃないから」とこの問題から「部外者」面して逃げようとしている私がおり、それは「オウム真理教の信者になることが救われること」として「それ以外」の人を殺すことをいとわなかった彼らと、なんら変わるものではないのだ、ということである。

おんなじことが今回の事件にも言える。大事なのは、「鬼退治」ではなくなく、なぜ「鬼」にならなくてはならなかったのかということを考えてみることである。

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